ノンプメレロ(4)

ノンプメレロのお話が止まっています。
ごめんなさい。まだ書けずにいるのです。
彼女のことを書こうと決めた日から、どんどんと彼女の記憶がふくらみ蘇ってきました。でも、その記憶は彼女についての話だけれど、多くが私というフィルターを通り、私が彼女を記憶するための物語になっていたんです。
「ノンプメレロのことを覚えていてね。」ノンプのメッセージは、そういうことなのかしら…。 そうではない、もっと強烈な「私がここに生きているのよ」という声のように思えてきました。

ノンプの最期の、本当に最期の一日。ノンプと二人で何時間も過ごしました。
窓辺から差しこむ朝日に、窓枠の影が床で揺れていました。「ノンプ。」部屋に入って、最初に声をかけた時に手をかけたのはベッドの白い鉄のフレーム。ヒンヤリと気持ち良く、友達が亡くなろうとしている時でも、そういう気持よさを感じるんだと思い、何か不思議で、穏やかな気持ちになりました。
友達が亡くなるとき。それは、死に向かう時間なのかもしれないけれど。
死とは「少しずつ人を蝕む感じ」「怖い」「悲しい」と言う患者さんや、地域で暮らす陽性者や家族に言われるけれど。
ノンプメレロの最期の数時間は、力強い「生」の時間でした。

そのことを書くのは、もう少し待ってくださいね。

ノンプから教わったことはいろいろあるけれど、その一つは、「死」「ホスピス」「看取り」の場での、私なりに感じ続けてきた、とても大切なこと。 「看取る」というと「死を看取る」と誰もが考えるかもしれない。 そうじゃなく、ひとりの大切な、目の前にいる人の「生きている」時間にひたすら寄り添って、その人の生きている姿を見届けること。それが「みてとる」ことなんだ、ということ。 死はあくまで、亡くなったその人だけの体験です。 私達にできるのは、死の瞬間を恐れずに、その大切な人の生きている時間を見つめて、一緒に生きていくこと。 自分の一部がなくなるかというくらい、穴ぼこが心にボコボコあくくらい、その人の喪失に後でもがき苦しむくらい、彼女の、彼の「生」を見つめる。 ホスピスの患者さんによっては「自分の死に様」を見守っていて欲しい、と話す人もいるけれど。それこそが、その人の最期の生き様だから、そう話し合って、約束して、たくさんの友人の最期の生き様を、たくさん、みてとらせていただきました。
私が看てきた、というか隣で過ごしてきて知ったことは、みんなの生きざまの、ほんの一部。 それでも、いつのまにか、みんなの命は、私という命の一部となり、今日もまた、私を形づくっていきます。 力強い命があった。その証は、残された人の心を 満たす宝物です。同時に死は、彼等だけでなく、自分までも何かが欠けてしまったような喪失の苦しみの始まりです。 苦しむ遺族と、「生きざま」を共有し、過去の人生を遺族から伺い、大切な今は安らかに眠るあなたの物語を、完成させる。ニバルレキレの活動も、ノンプとの出会いが、私を導いてくれたように思います。
アフリカの大地に眠っている誰がが、今日も風となり家族を包んでいることでしょう。 私も、大地の下で眠る誰かのところへ、旅をよくします。体に空いてるボコボコの穴ぼこを癒すために。大切な人の生きた時間を、自分の心に呼びおこすために。

(今日はちょっと、いつも以上に、まとまりないですね…。ごめんなさい。)