おむすび

ニバルレキレの活動そのものの話ではないけれど。

人と人が一緒に、同じことに向かい合う。そして一人が自分で、自分はどうするかを決めていく。もう一人は、その人が決めていく過程に静かにじっくりと寄りそう。
そんなソーシャルワーカーとしての自分の仕事について、大切なモノサシのようになって、私を支えてくれている青年の思い出がある。

当時私は、PSW(※)として、精神疾患を抱えた人が地域生活に出るための体験を重ねる場として利用することのできる、「援護寮」という施設で働いていた。その職場では、援護寮から地域へ出てアパートでの一人暮らしを始めた人たちのためのアフターケアサービスも行っていた。現在の自立支援法なんかができるよりも、ずっと昔の話だ。
入所中からずっと担当をしてきた青年が頑張って、アパート生活を始めて、しばらく経過した春のことだった。
彼は本当に一つ一つのことに一生懸命な人だった。自分が病気によって何に困ってしまうようになったかがわからなくて、わからないことに困っている、というところがあった。病気の症状のせいで、多くの人にはサラッとこなせてしまう生活上のことには、相当の労力をかける必要があった。例えば、コショウを見つけるのに、何十分もスーパーをぐるぐる。同行した私は、コショウここだよ、と言ってしまえばよかったのかもしれないが、彼に見えている世界を知りたかったので、じっと彼がコショウを見つけるまでいっしょに彼の目線を追いながらスーパーをぐるぐるまわった。
そんな彼が他の利用者よりも相当苦労しながらも、アパートを無事に見つけて、一人暮らしを始めることができた。
もっと、私が前方に出てリードすれば彼の苦労は少なくて済んだように、その後様々な同僚たちの仕事ぶりを見る中で考えたりしたが、彼は別に私にリードして欲しいと思っていなかったので、私はだいたい少し後ろをいつも歩いている関係だった。不動産屋まわりのときは毎日、じっと彼のその日選んだ駅の近くのお店で待つ約束になっていた。つい気になって、電信柱の後ろから、不動産屋と物件の内覧に歩いて向かう彼の姿が小さくなるまで見つめていることの方が多かったけれど。
アパートに出た彼は定期的に「OB泊」といった感じのショートステイを入れて、アパートでの疲労の解消とリフレッシュを援護寮で行うことにしていた。手厚いアフターケアができるのは1年に限られている。徐々に定期的なOB泊を減らし、必要なときに自分から申し出る力をつけてみようか・・と相談し始めた頃に、彼が調子を崩し始めた。不安もあったのだろうし、明らかに服薬が不規則になっている様子が言動から伺えた。
電話での様子があまりに辛そうだったある日、アパートを訪問した。お薬は案の定大量に余っていた。服薬が医者からの指示通りにできない状態の表現として、怠薬とか拒薬ということがあるけれど、彼の場合は、暮らしの、起きてから寝るまでの家事や様々なことでクタクタになって、飲んだか飲まなかったか自分で把握する余裕がなくなってしまっているように思われた。薬の袋には日付を入れていたけれど、日付なんか目に入っていなかったに違いない。
このままだったら、アパート生活がつぶれてしまう。そう話し合って、援護寮へのショートステイを緊急に今日からでもしよう、と誘った。彼は拒否した。
服薬が適正でなくなる中で、服薬を含めたあらゆる治療や周囲の支援に拒絶の姿勢を示す人にも出会うことがある。彼の場合もそうなのだろうか。彼はアパートを空ける訳にはいかない、と繰り返す。彼なりに自分の今の黄色信号を自覚していて、アパートを離れてしまったら戻れなくなる、と思っているのだろうか。アパートにはいつでも戻ってこれることも話し合う。それでも彼は今日は駄目だと繰り返す。
どうしてだろう?部屋をじっくりと見回した。ポットが保温状態になっているけれど、それはコンセントを抜けばいいことだ。冷蔵庫?彼に自宅にある日持ちしない食料は、ショートステイに持っていこう、と持ちかける。彼の態度が少し変わったようにみえた。彼に少し近づけたのだろうか。それでも彼は、無理です今日は、ごめんなさい、と言う。「今日」が無理な正直な理由を知りたいんだけれど、教えてくれない?ショートステイには行きたくないのね?気持ちを尊重するから。と、明日の訪問も検討しながら、彼に食い下がる。
すると彼が、ようやく教えてくれくれた。
ご飯炊いちゃったんです。3合。炊飯器は冷蔵庫に入らないし、どうしたらいいかわからない。炊飯器を持ってショートステイには行けないでしょ。だから・・。
彼が体調が悪く苦しい中で、生活をどうにかこうにか頑張っているところに、予定とは違うショートステイを私から打診されたら、それは混乱したことだろう。予定になかった行動に思考をシフトさせるだけでも大変なのに、彼としては炊飯器のご飯をどうしたらいいかわからない。その彼の途方にくれていた心に、私はぜんぜん寄り添っていなかった。彼がその日私を前にして、どんなに困ったか、何に困っていたのか。私は見当違いな頭で同じ部屋で過ごしていたことに気づいた。具合が悪い部分から私は彼を見つめていた。具合が悪いなからも、彼はちゃんとご飯やいろいろなことを考えて丁寧に暮らしていた生活者だったのに。スタートが違っていたら、どんどんボタンはかけ違っていくものだ。そうやって、人との信頼関係は崩れていくのに。
無意識に何かレッテル貼りのような、決めつけのようなものを人にしてしまうことを、自分がしていたことに唖然とした。そしてそれを気づかせてくれた、彼の心というか生きる姿に改めて胸を打たれた。
ごめんね。本当にごめんなさい。
彼に謝る。それから、「一緒におむすび作ろうか?おむすびを食べよう。」と誘って、二人でいくつもおむすびを作った。というか、私が作っていくのを、彼はじいっと真剣に無言で見つめていた。
おむすびが出来上がる頃。「ショートステイ、今からでも行けますか?」と彼がその日初めて笑顔を見せてくれた。
おむすびと、冷蔵庫にあったほんの少しの食料と、着替えなどを持って、二人で援護寮へゆっくり向かった。
今度はおむすび自分で結べるように、教えてあげるね。元気になったらね。今日はゆっくり休もうね。
彼は、その後も低空飛行ながら、以前よりも家族や保健師からの支援も受ける形でアパート生活を続けていった。

別の職場に転勤になり、彼とお母さんからは御礼の葉書が届き、元気に頑張っていきます、とだけ書かれていた。私からもお礼状を書いて、それ以降彼とは連絡をとっていない。当時は公職にあったこともあり、また自分の未熟さからも、出会った大切な皆のプライバシーは職場を離れた自分が無責任に扱ってはいけないと考えていた。彼が新しい地域での支援者の中で頑張れているのが一番だし、そのことは知らされていたから。
ただ、新しい職場には、退職するまでずっと電話で自分や仲間たちの近況を教え続けてくれた援護寮の他のOBがいた。
そのOBがなぜ担当でもなかった私に電話をかけてくるのか、ずっとわからなかったのだが、あるときの会話でこう教えてくれた。「Mさんのおむすび。Mさんが僕ら皆にいつも言うんです。困ったときは絶対助けてくれるよ。だって僕が困って途方にくれていたときに、おむすびをつくってくれたんだよ。って。あのおむすびが一番嬉しかったって。」

いろいろな、いわゆる支援と呼ばれるようなかかわり合いを、彼とは3年近くあった中で。心に一番届いていたことは、おむすびだった。私の中で、大切な思い出となったおむすびを、彼も大切に思いながら暮らしていてくれていることに、家に帰ってから少しだけ泣いた。

彼が教えてくれたこと。それは、ワーカーという仕事をする私の在り方だけではない。もっと、私自身までもが癒されることだった。人は皆、日々の小さなことを、とても大切に真剣に取り組んで生きている。小さなことをしている自分に、このままじゃいけないんじゃないか?と鞭打つ行為を自らしてしまう人がたくさんいる。でも、あなたのその暮らしは、なんて素晴らしいんだろう。あなたは、そのままで素晴らしい。

その後、南アフリカへ渡って働き始めるまで、何年もの月日に数え切れないくらいの数の人たちと、総合病院の医療ソーシャルワーカーとして出会って、別れてきた。
南アフリカにかかわり、ニバルレキレの仕事をしていて私はとても満足していることが1つある。それは、もう誰ともお別れしなくていいことだ。
もちろん、死という別れはあるものの、死は新たな形でのその人との関係性の始まりだ。ニバルレキレは、相当公私混同の活動だ。仕事をしているという感覚は誰にもない。生きている自分の暮らしの延長で、出会った人とひたすら一緒に生きていくことができる。どこまでも寄り添える。そしてどこまでも、私たちも支えられ、教わり、抱きしめてもらう。私にお金があれば、それは仲間や遺族や皆とシェアするし、誰かの家では食事をシェアし、誰かの住まいでいろんな人が暮らし、私の子供を遺族が子守してくれる間に、私が別の用を済ませるなんてこともある。だんだん、遺族ケアや陽性者を「支えている」のではなく、「一緒に生きていく」ようになる。それぞれの仲間がいろいろな家庭と、ファミリーになっていく。ファミリーだから、一緒に分かち合って当然、というのが今のニバルレキレの姿だ。もちろん、他にもいろいろな活動があるのだけれど、ベースにあるのは、福祉とか医療とかケアとか国際協力とか草の根とか、そういう言葉の一般的な意味合いとは、違う、「今ここで一緒に生きていく」ことで、南アのエイズとともに生きる全ての人の命の輝きや、エイズや過去の歴史や貧困によって負った痛みを理解できないか、みんながもっともっとこれまで出せずにいただけの力を出せないか、そんなことを考えながらニバルレキレはこれから存在していこうと思っている。
きっとアフリカの言葉でなら、これにぴったりの言葉があるんじゃないかと思う。

これまで出会った多くの人に感謝しながら、これからもニバルレキレは進んでいこうと思う。

(※〜精神科ソーシャルワーカー。現在は国家資格の精神保健福祉士を指すことが多い)