車椅子の少年

電車の中で車椅子の青年を見かけた。20歳くらいだろうか。車椅子の仕様や彼の仕草をみていると上体にも麻痺がある様子であった。とてもお洒落でさわやかで人目を引き、ハンチング帽がとっても似合っていた。
一人の少年を私は思い出していた。
10年近く前に救急病院のソーシャルワーカーをしていた頃のことだ。とある事故で17歳の少年が頚椎損傷を負い、救命センターに運ばれた。首から下がほぼ完全に麻痺してしまうという非常に重度の障がいが残る宣告をしなければならず、彼の若さもあって救命センターのスタッフも医療相談室も心を痛めた。衝撃を受け茫然と、とまどう家族をよそに、彼は初めて出会ったときから、ほとんどの場合に笑顔であった。不思議なほどだった。将来はプロレスラーになるのが夢という彼。「プロレスじゃなくてプールの事故だということが悔しい」と彼は言った。始めてのリハビリの日、口で加えた毛筆で彼は「根性」と書いた。
高校は技術科だったこともあってか、「入院では単位がとれなくなってしまう、しかも専門の授業は後遺障害でこなせないだろう」ということから、校長側からは退学が示唆された。悩む担任を前に救命センタースタッフとワーカーであった私は一念発起。
明るい性格の彼のところには友達の面会がとても多かった。担任も会いに来て授業やクラスの様子などを話していた。これを使おう。病院には面会者の受付簿がきちんとある。過去の面会簿を全てチェックしていくことから始めた。彼への面会の記録を表にして、「それぞれの日に先生や友達が学校の様子や授業の進み具合などを教えている」つまり「補習を彼は自ら積極的に行うことを望み、学習意欲が豊富である、退学など考えられない」ということを証明するための文書をつくり、その彼の努力が事実であったということを、病棟の日々の担当看護士と、庶務課交渉によって病院長証明を出してもらうことにした。体育の授業は彼が頑張っているリハビリが相当すると思われる旨の手紙を書き、校長先生をリハビリの時間に招待した。
お会いした校長先生は礼儀正しく、人柄も良い印象。ただイレギュラーな今回の事態に困惑して、自身がイレギュラーな判断を下すことへの迷いを抱いている様子が言葉から伺えた。職員会議は繰り返されたようだったが、校長先生も考えが代わり、彼は卒業までの在籍が認められた。もちろん、ちゃんと補習とリハビリを頑張るという約束で。
勉強が実は嫌いな彼は「あ〜あ、友達とはおしゃべりしてたいんだけど」「本当に友達や先生が教科書を開くようになっちゃったよ・・」と苦笑いした。そして「親友たちと一緒に卒業しようと誓い合ったんだ・・」と、真面目な顔でつぶやいた。
救命センターはその性質上、救急治療が終わった患者は、他科・他院への移動が必要となる。新しく迎える患者のために常にベッドを調整しないといけないからだ。また患者自身にとっても急性期が過ぎた場合は、リハビリなり療養なり目的に沿った転院などをすることで回復が助けられるというメリットがある。(実際には医療機関側の都合が大きいケースが多いかもしれないが。)
彼の場合も国立の頚椎損傷専門のリハビリの病院や施設にエントリーした。そして、それを待機する間の過ごし方として、担当看護士と私は、彼の好きなプロレスを、「体が動かなくなっても、夢は叶えられる」という体験に結び付けられないだろうか?と知恵をしぼることにした。彼に本当だったら何をしたいか?と質問すると、少し先に開かれるプロレスの試合を観にいきたいとの返答。やっぱり。もちろん彼はまだ、自分の状態で病院の外に出かけることが可能だとはイメージできていない。
プロレス団体に電話して事情を説明した。前例はない、とのことだった。こちらも「検討してご連絡します」という返事がもらえれば良い反応だと思っていた。
しかし団体はその場で決断した。車椅子しかも彼のように重症で、まだ「救命センター」に入院中の患者の観戦ができるような観客席の配慮をしたことは今までにないです。それに観客はけっこう興奮しますからね。その意味での座席への安全への配慮も必要でしょうね。でも、その彼の観戦は、ぜひ実現させましょう!
なんとも感動する回答だった。
これが少年の好きな世界なんだなぁ、と本当に感動してしまった。
少年は驚きすぎて、最初は声が出なかった。一日一日、胸を躍らせ始め、リハビリにも力を入れた。
観戦には弟が同行することになったので、看護士たちが弟に車椅子移動でのケアの仕方や、タンの吸引や尿カテーテルへの対処を教えていった。中学生の弟は兄同様に、とても聡明で前向きなタイプ。お兄さんが大好きな彼が、いずれ自宅での生活となった場合の、介護者の一人として活躍してくれる可能性も見えたような気がした嬉しい光景だった。
いざ、プロレス観戦の当日。救命からプロレス観戦に行く患者は、もちろん病院としても前代未聞だったが、医者たちも誰もがワクワクしながら、彼の帰りを待ち、満面の笑みでの彼の帰院に皆で歓喜した。
「VIP待遇でびっくりしちゃった。特等席だった。盛り上がったよ〜!」彼も頬を上気させて、その日の喜びを報告してくれた。

その後、彼は国立の専門リハビリの病院へと転院していった。そこから同じく国立の専門リハビリ施設にも入所することができたと、父親からの連絡をもらった。
高校の卒業式の翌日、私のところに姿を見せてくれたときには、弟に染めてもらった金髪でお洒落に決めてきた。
彼専用の電動車椅子を、リハビリの成果でわずかに動くようになった手の力で自分で操作できるようになっていた。相変わらず、プロレス観戦が趣味で転院先の病院でも施設でも、今では自分で電話で団体に連絡をとって出かけているんだと嬉しそうに教えてくれた。
父によると、いつも笑顔の少年が高校の卒業式の日に一度だけ泣いたのだそうだ。
卒業式の夜に、彼が怪我する前の「鍛え仲間」の親友たちと、当時みんなでジョギングしていたコースを、彼の車椅子のペースに合わせて、全員で記念にぐるりとまわったのだという。そして、その日の夜に初めて彼が泣いた。号泣した。「お父さん、ごめんね」と。
男手1つで息子を育ててきた父親。愛した妻に先立たれ、その喪失の寂しさも心に抱えながらの年月。果たして自分が障がい者となった息子を自宅に迎え入れられるのか、生計はどうなるのか、生活はどうなるのか、将来はどうなるのか・・深く苦しみ、相談室では何度も肩を震わせていた。
息子の「ごめんね」に我に返った。「これからは家族で心を合わせて頑張って生きていきます」と、父がその日は笑い泣きだった。少年は隣でニコニコしていた。

彼は元気にしているだろうか。好きなプロレスを観ているだろうか。自分の夢を見つけただろうか。

少年と、電車で会った青年と、アフリカの少年たちが重なった。
多くの出会う少年たちは、大人と違って愚痴をこぼさない。心のうちを簡単にペラペラとは語らない。
私たちは見ていないと、大切な何かを見逃し失ってしまう。もちろんそのときに一番苦しむのは、彼ら自身。
自分の中で葛藤を抱えてしまったとき、思い通りにはならないことを環境に宣告されたとき。それでも未来への希望を信じられるか、挑戦できるかは、本人の自己肯定感とあきらめない勇気が一番重要だと思うが、そのためには周りの大人たちがコツコツと時間をかけて、どこまで環境を作ってあげられるかなのだと思う。
環境を作るのは難しい。お仕着せがましさがあれば倦厭される。下手な環境は干渉や支配にしか見えないものだ。恩着せがましければ、見通され反吐を吐かれるのがオチだ。強要したら、失敗したときに大人や社会のせいにする人間になってしまう。上手に、選択肢を作る。信頼関係をつくる。どんなにハードな環境であっても、1つや2つなら、なにか作れるはずだ。
それから、大人たちは自分の不幸を子供に語らないこと。子供は全身でそれを受け止める。大人が家庭で不幸だと、子供は泣けなくなってしまう。日本でもアフリカでも、親の不幸語りのために、心理的に親に縛られてしまっている子供にたくさん出会う。
家族や社会という、幼い者にとっては逃げようのない縛りや囲いの中で傷つき育った大人たちと、日頃仕事で接しているので、新たな犠牲者は少しでも増やしたくないと常々思っている。

南アフリカの場合は、エイズや貧困や暴力・負の歴史によって傷ついている。文化・歴史・価値といった土台を失ってしまった中で、他の見方でいうならば、「環境」「機会」というものも奪われた中で、幼少期を過ごし、大人になってしまった人達というのが、エイズで一番打撃を受けている世代だ。自尊感情を育むことがうまくいかないことによる葛藤や諦めが多く、しかもエイズで命を落とす。安易に犯罪者へとドロップアウトする。おのずとその環境の中で子供たちが傷ついている。

ただ子供の生まれ持っている力でいえば、基本は元気いっぱいだ。喜び笑うことが大好き。でも少なくとも私が出会う子供や若者達というのは、傷ついている。見せなくても。だから、うんと一杯喜びの体験の場をつくり、挑戦できるものをつくる。環境を作る。難しいけれど、それが未来をつくる、ということなのだと思う。小さな出来事が、小さな喜びが、とても大切なかけがえのない1つの命を、より輝かせていく。

日本とアフリカ、遠いけれどつながっている。そう改めて感じている今日の回想。ちょっと、説教くさかったかな。