チャレンジャーになること(1)

新しい試みの、ワークショップI KNOW のためのメルマガの発行申請を今日行った。長年いろいろなメルマガを受け取る中で、「まぐまぐ」という名前だけは頭にインプットされていた。

みんなの前で「メルマガを・・」とはりきって言った段階では、どうやったらメルマガが配信できるのか実は理解していなかった。
子供の頃に、親が私に教えようとした価値観は「不言実行」だった。だけれど、子供というのは(もう大人だけれど)親とは全く別の個性を持った生き物なので、教え諭されようが、あまり効き目はなかった。「有言実行」を着々とやっていく人って、なんだか格好よい気がするし、不言実行を貫く友人にも憧れる。
でもニバルレキレの場合は、どうも「先走り暴走・・周りがフォロー」というパターンが多いかもしれない。

病院のワーカーをしていたときも、前代未聞的な変なソーシャルワークで、同僚のワーカーや上司からは時々クレームをもらっていた。「あなたと同じように皆ができないことをしていることをどう考えるの。それは機関の役割を越えているのではないか。あなたが仮に去ったときに、困るのは紛れもない患者さんたちや他のコメディカル・スタッフ、それに私達でしょう」といったことだ。区長談判や、NGOの公立病院内への巻き込み、新幹線のぞみを止めた(JRさん・お客様すみません)、寝たきり患者のためのセスナチャーター・・。人工呼吸器の高齢の患者さんを初めて離島で在宅で看取るという時には物議をかもし、なんども話し合いが繰り返された。他県からの不法滞在の外国人の重症患者の受け入れの窓口になった。
当然だと思ってやっていた。だって患者さんや家族が望んでいることで理にかなっていることは多かった。セイフティネットから誰かが脱落していくのは間違っている。誰の命も、心も尊重されるべきなのだから。

先に実現することが決まっている。あとは走っていく。でも時々アフリカ人同様に、長続きしない。そこを仲間が助けてくれる。再び充電して浮上したら、またガンガンやってみる。うまく言えないが、「それは無理」という言葉を聞くのがあまり好きではないのかもしれない。そして、自分が見たものを、見なかったとは言えない。それだけの話かもしれない。

では、ニバルレキレの素晴らしい仲間のフォローぶりについて今日は紹介したいと思う。

頭にあれやこれやと浮かぶ脈絡ない私の妄想に、眉をひそめてヒヤヒヤと助言をくれ軌道修正をはかったり、一般的な例やアクションの方法を教えてくれるのは、アフリカ日本協議会のSさんだ。そして事務処理能力のなさを見て取り、ニバルレキレの作品の管理と発送作業をしてくれているのもSさん。

展示会を巡回させる上での、写真パネルや作品の管理方法、工夫、そして巡回が長く続くようにと、人脈を駆使して全国巡回を実現させるのを手伝ってくれたのは、信濃毎日新聞社のSさんだ。

ボランティアで写真をとってくれた、ビクター・マトムからネガを「任せるよ」とホイと手渡されたときには、「展示会をやる」と決めていただけで、写真パネルがそもそもどうやって作れるのか、何も知らなかった。写真展は好きだったから、長倉洋海さんや港千尋さん、山本敏晴さんの写真展には足を運んでいたし、写真は大好きなので、いろいろな海外のフォトグラファーの写真集も持っている。でも、それと自分がパネルを準備し、展示会を行うのとは、別問題。ネガと子供の作品を抱えて一時帰国した。

楽観的な私は、大学時代の先輩に連絡をとった。今では本屋で平積みに置かれるような作家になってしまった、青空を見つめ大切な心を共有してきたG先輩。彼のお父さんは写真家だった。教えて欲しい〜とSOSを出した。お父さんはC.W.ニコルと仕事したりしているすごい人だとは知らずに。
ど素人の、しかもアフリカンタイムで遅刻しやすい私を、叱りながら、一からすべて、写真がパネルにできあがるまで、第1回の展示会が無事に終了するまで、写真家のSさんはボランティアで手伝ってくれた。

写真にはキャプションがいるんじゃない?と別の写真家Nさんが、どうニバルレキレを知ったのか、キャプションづくりを手伝ってくれた。

アフリカから一時帰国するときは1ヶ所しかも1週間の無料ギャラリーしか予約していなかった。
あとは、私流の「巡回させよう!」妄想の小さな発信に、かつての反アパの活動家たちが、ビクターとの強い絆をモチベーションに、どんどん全国にニバルレキレの話がまわっていった。ほ〜!すごい!
これはやれる。多くの人のその「動くこと」「自分の知らないことを知っている人とつながること」「つながった人と絆を深くもつこと」という真摯な暮らしと活動のおかげで、ニバルレキレ展が7年続いてきた。
これは、明らかに反アパの運動のネットワークがあってこそのスタートの怒涛のような1年だった。

それから、南アでの活動。
人と向き合ってソーシャルワークや、グループワークや、ソーシャルアクションを起こしていくことは、私のちょっとばかりのスキルだから、とにかく人と出会う。向き合う。一緒に生きる。人と人をつなぐ。何かがうまれる卵の前の、ちょっとしたセッティングをしてみる。

その活動は、多くの人の支援のお金で支えられている。そう、ニバルレキレの活動は資金ゼロではできない。元々は私の退職金を崩しての活動だったが、展示会などを通じて、寄付金をいただくようになった。
このお金をきちんと管理してくれているのは、現地の仲間のKさんだ。私の事務処理能力の欠落と、金銭管理能力の欠落を早期に見抜いて、私が口でいろいろ報告している間から、ちゃんと内緒でコツコツと会計をつけてきてくれている。

そして日本でも、既に何か文書でのニュースレターを発行する場合には発送作業を手伝いますよ!なんて言ってくれている青年がいる。とても過去に苦労して、社会の中から自分がこぼれ落ちてしまったことに、もがき苦しんだ青年だ。社会と再びつながる。それをじっくりと、ゆっくりと達成している彼の出番を早く作りたい。そんな夢も今は抱いている。

ニバルレキレの私にとって、繰り返しでしつこいかもしれないけれど、ブログを始めることにはとても抵抗があり7年も拒否し続けてきた。HPはいまだに心が決まっていない。
でも、今年は再びチャレンジャーになる力の種のようなものが心の中でに蒔かれ、芽生え育ちつつある。支えてくれたのは、チャリティーコンサート実行委員会の存在。そして『南アフリカを知るための60章』によって、南アに深くかかわる方たちと出会う中でもらった勇気。

日々聞こえてくる(幻聴じゃないです)、南アの出会った皆の声。生きて、誰かを愛し、絶望して、泣いて、笑って、涙にくれ、悲しみの中から、何かを赦し、最後まで生きて死んでいった命。今も生きている命と。伝える時期が来た。そう皆の声がする。それは突き動かされるような感覚だ。迷いながら、歩いていけ。そう彼らが私に伝えてくる。

そして、ツイッター。ふふ〜ん?と試しにやってみたら、ネットで人とつながることの中にも、大切な本物の出会いがあることを、信じさせてくれる体験をした。ブログを書き続けていくことへの決意も新たに抱くことができた。

ずっと個人的なブックリストとしてある、伝えたい物語たち。
ワークショップを前回ひらいて、何か可能性の、希望の小さな光が見えた気がした。

チャレンジャーになること。それは、大切にしたい人がいたときに、勇気を持つこと。チャレンジャーになるとき。そのとき、何かが本当に生まれるのは、多くの人の力が集まったときだ。
だからニバルレキレでは、私達仲間は、無名でいいような気がしている。

名もなき人とも言えるような、小さな命を伝え、ともに生きるニバルレキレ。そこでの仲間の私たちも、同じような名もなき人に過ぎない。そんな私たちの、この活動がもしも大きくなることがあるとしたら、何かその時に、素敵なことが生まれるんじゃないかな、と今日も妄想している。

メルマガ、近々発行できますように。審査に通るのかしら、ドキドキです。アナログなので、試行錯誤ですが、なんとかなるに違いない(笑)。

それから、今日のタイトルには続きがあります。だから(1)。
(2)の話は、タウンシップでチャレンジャーになること。こっちの方が、たぶん、なるほどのタウンシップ理解になるお話です。楽しみにしていてくださいね。