シンピーウェへ。

これからワークショップに出かけてきます。

ンポ・セゴメラという少女の人生に皆で寄り添う時間です。

心の中にシンピーウェのことがよぎります。
6月に書いた記事ですが、よかったもう一度読んでいただけたら幸いです。

今年の5月に一人の少年がエイズが原因でなくなりました。彼と、彼を支えている仲間のことをこうやってブログに書くことに、数日悩み続けました。何よりも7年間、私は出会った友人たちの死、さまざまな苦しみについて、どれだけ自分が理解できているのか、語る資格があるのか悩み続け、ワークショップ含めて信頼のおける場面でのみ語ってきました。

 少年の生きた15年の中での喜びや涙・辛さ・希望。彼の命の輝きの月日や心を語る資格は私にはありません。彼の人生をしっかりと語れるのは少年自身だけなのですから。それから彼と心からの触れ合いを続け、心を痛めている仲間が納得できることが私に書けるかも心配です。でも、彼に何が起きたのかだけは、皆さんにお伝えすることができます。

 南アで今もエイズで幼い命が奪われていることを、その悲しみや悔しさに私たちは無関心でいてはいけないことを、一人でも多くの人に伝えなければいけない、そのことに私が怠惰であったことへの後悔を二度としないために。今日は長くなってしまいますが、どうか読んでください。シンピーウェ(仮名)、頑張って生きたね。


〜シンピーウェ〜  

 シンピーウェはエイズ孤児です。2004年に私の友人がキラキラとした眼のシンピーウェとお姉ちゃんのントント(仮名)に出会いました。彼らのことは2004年に毎日新聞の中尾記者とカメラマンが素晴らしい記事にしてくれています。

 エイズ孤児として入れられていた施設を脱走して、スクウォッターキャンプに住むおばあちゃんを頼ったントントと、彼女を慕うシンピーウェは、生きる力の強い明るい姉と弟でした。学校には行っていませんでした。

 友人は彼らが学校に行く支援やきちんとエイズ孤児として学費を免除してもらうための手続き、必要なものを用意する手伝いをする中で、少年たちからお父さんのように甘えられるようになっていきました。南アはとてもシングルマザーの多い国です。父親との交流がないままに育つ子供もたくさんいます。母の死は孤児になることに直結します。その中での信頼できる大人の男性との出会いに、少年はお父さんへの憧れをもっていたのかもしれません。

 小学校が終わったあとの放課後は、給食を食べたり勉強を見てもらったり遊んでもらうことにできる、親のない子供のための「ドロップ・イン・センター」に通うようになりました。センターまでの遠い距離を元気に通う二人を支えるセンターのソーシャルワーカーとも私たちは親しくなり、友人とワーカー(彼の名前はムズワキ、現在はニバルレキレの仲間です)は、彼らのこの7年の年月を見守り続けました。また、彼らの住むスクウォッターキャンプで、子供のためのコミュニティ活動を行っているグループのリーダー格の青年が、シンピーウェ達の様子を足を運んでみてくれました。

 危惧されていたのは、子供たちが母子感染していないかということでした。彼らが出生した時期は、南アでは母子感染を防ぐための薬が貧しい人は利用できなかったので、多くの母子感染でHIVに感染した子供が生まれ、そして子供のエイズ発症までの期間は早い場合が多く幼い命がたくさん失われていました。

 人は誰でも、恐れへの予感がある場合には、決断を避けようとします。問題に直面するには強い決心が必要ですし、その際に支えてくれる人が必須です。HIVの検査をすること。その恐れは誰にとっても相当のものです。特に、適切な治療を受けることが困難な状況が続いている南アでは、感染の恐れは、死の恐れでもあるのです。幼い彼らは母の死因を知っていましたし、スラムに一緒に暮らすおばあちゃんももちろん恐れていましたから、検査を受ける必要性を誰もが感じ、話し合いながらも、なかなか検査には行けませんでした。

 この間に、南アの政府による公立病院でのARVというエイズ治療に有効とされる薬の無料支給が始まりました。このシステムや、治療にかかわる様々なことを書くのは別の機会に移りますが、とにかくシンピーウェも万が一感染していた場合には、治療が受けられる時代へとようやく南アが変化しはじめたので でも、悲しいことにシンピーウェがようやく検査により感染を知ったときは、かなり体調が悪くなってからでした。HIVの検査を本人や保護責任者の了解なく周囲が行うことはできません。この病の難しさは、恐れを乗り越えて検査を受けるための働きかけに、多くの壁があるということです。少しでも早くに感染を知れば、治療の効果が増すけれども、遅すぎてはいけないのです。しかし、個人の意志を無視して検査することはできないのです。私たちは、彼らとおばあちゃんへの説得に力不足だったことを、認めなければなりません。

 シンピーウェの感染がわかり、彼の体調不調を目の前で見たお姉ちゃんのントントは勇気を出して検査を受けにいきました。やはり検査結果は陽性でした。二人の感染経路は母子感染です。

 15歳・17歳という年齢になるまで、彼らが治療にアクセスしないまま頑張っていきてきたことに、日本の医師である友人は驚いていました。本当に強い生命力と、姉と弟の絆によって、彼らは頑張って生きていたんです。

 シンピーウェは治療は受けだしましたが、衰弱していきました。

 少し難しい話をしますね。ARVという薬はHIVウイルスと闘い体の免疫機能を強める効果を持つ薬です。HIVウイルスによって体の免疫機能が低下した身体には、ありとあらゆる病気が起こります。それらを日和見感染と呼びますが、日和見感染の起きだした状態をエイズ発症と呼びます。この日和見感染に対しては、各々の病気への専門の診療科による適切な治療がさらに必要となるので、ARVだけがあっても、他の総合的に患者を支える医療チームというのでしょうか、医療連携が公立病院にない環境である南アはまだまだ感染者には過酷なのです。また、ARVを南アの公立病院が提供してくれる目安は、CD4カウントという免疫力を評価する値が200以下になった場合です。専門の勉強をしている人はご存知と思いますが、CD4カウント200以下というのはエイズ発症の目安の値であり、先進国ではもっと高い値のうちにARV治療を行っています。
(2011年現在、CD4カウント300以下の方が治療対象へ。)

 そういった医療背景もあり、シンピーウェを衰弱から回復させることはとても難しかったのです。私たちにこのような場合にできることは、病や死の恐れの中にある人・子供たちを孤独にしないこと。そして「生きたい」という強い希望を本人にもってもらえるような日々を作り出すこと。

 友人は、彼らを自宅に滞在させて、生まれてから一度も見たことのなかった海に連れていったり、ピアサポート・カウンセリングの力をもった感染者の大人と過ごす時間をつくったり、新しい友達との出会いの場をつくったり、温かい栄養のあるご飯を皆で囲む日々を送りました。シンピーウェにも、初めて好きな女の子ができたんだよ、そんな知らせが私にも届きました。

 そして、シンピーウェは、おばあちゃんのところへ会いに行ってくる、と戻ったときに倒れ、病院に搬送されて亡くなりました。亡くなったときの彼が抱えていた病状は、私たちは詳しくは何も知ることができません。ただ、わかる範囲のことを感染症専門の日本の医師に話したところ、多臓器不全になっていたのでしょう、ということでした。シンピーウェは全身がボロボロになりながら、最後までその命を輝かせて、死の恐れと一人で向き合い、懸命に生きていたのですね。

そして、南アのエイズ問題も貧困の問題も、7年前と変わっていないこと、ARV治療のスタートのニュースで、何かが私たちに見えなくなってしまっていたのかもしれない。そのことを、小さな体でシンピーウェは伝えていたのですね。本当にごめんなさい。

 子供たちを決して死なせてはいけない。本気で一緒に生き分かち合わなければ、世界は変わらない。

 どうか、このブログを見てくださった方が、シンピーウェの人生のことを、今日眠る前に、少しだけ考えていただけたら、と思います。ニバルレキレではお姉ちゃんのントントのこれからの人生を、可能な限り支えたいと思います。