被災地・個人ボランティア〜友人のリポート(1)

長文になります。

私がアフリカ日本協議会という団体を通じて知り合った友人に、
茂住衛さんという男性がいます。

過去には、ニバルレキレのために、アフリカンドラムのワークショップとアフリカンダンスのワークショップと、南アのお話の時間を組み合わせた素敵なワークショップを企画してくださいました。

今もワークショップや、アフリカンフェスタなど、ことあるごとにお会いしたときには、いろいろなお話から学ぶことの多い大切な友人です。

その茂住さんは、全くの個人で今回被災地でのボランティア活動をされてきて、その報告を、私も加入している「ポジティブ・アフリカ」というMLで報告をしてくださいました。

その第1弾をご本人の了解をいたきましたので、全文転載します。

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皆さん、こんにちは。
茂住です。

 4月17日(土)〜18日(日)の両日、首都圏に在住する知り合いと共に7名で東北・関東(東日本)大震災と津波によって甚大な被害を受けた宮城県南部の仙台市名取市、亘理(わたり)町に行ってきました。17日は、今回の被災地訪問をコーディネートしてくれた全労協全国労働組合連絡協議会)宮城のメンバーの案内で、津波被害の現場を見てきました。そして翌18日は、亘理町社会福祉協議会社協)が運営している災害ボランティアセンターでボランティア登録をして、津波被害を受けた家屋の泥(ヘドロ)出し後の水洗い作業に参加しました。

 今回の大震災に関して、津波の被害や支援のボランティア活動の話題に限っても、多様な媒体(メディア)から無数のレポートや報道などがなされており、このメールを見られる皆さんも、こうした多彩な情報を受けているだけでなく、自ら発信されているかたも少なくないでしょう。無数に繰り返して発信されている情報の中で、自分自身を「納得」させるための体験を述べることになりますが、メールにて報告をします。

 かなり長文のメールになってしまいますので、3回にわけ、今日は第1回分のみを送信します。

【仙台駅に到着して】

 今回私は、新宿から深夜の高速バスを利用して、仙台には17日の朝6時ころに到着しました。バスを降りた仙台駅東口では、崩壊した建物やその跡を直接に見かけることもなく、また駅のエスカレータや照明もほぼすべてが機能していました。外から一見しただけでは、まるで地震による被害などなかったかのように錯覚してしまうほどです。
 しかし現実には、ここから10kmも離れていない地域でも、津波による壊滅的な被害が広範囲に拡がっていることは、何度も繰り返して伝えられてきました。今日の午後にはその現場に直接に行く。その現場を直接に見たときに、映像や写真ではすでに「見慣れた」ものになっている被災の現実の風景は、私の中にどのように飛び込んでくるのだろう。そうした恐れや不安をを抱えながら、被災の現場に向かいました。

 地震による被害が外見からは見えにくい仙台駅の周辺ですが、その一方で、長靴とDバッグ姿で、これから被災地の支援活動に向かうのだろうと思われる人々は何人も見かけました。またコンビニの食品の棚は、かなり空っぽになっていました。3月11日の大震災からすでに1カ月以上もすぎているにもかかわらず、いまだに流通が回復していないのか。あるいは仙台市内ですらいまだにライフラインが完全に復旧していない地区があり、食料や飲み物を始めとしてモノ不足が続いていることが影響しているのかもしれません。
 そして、街のあちらこちらで見かける「がんばろう! 東北」「がんばろう! 宮城」という標語。「がんばれ」という言葉は、うつ病の人に対しては過剰なプレッシャーを与えるだけであり、禁句になっています。「がんばろう」という言葉が相手からの共感を求めるものであったとしても、「がんばる」ための基盤のほとんどすべてを奪われてしまった被災者に、この言葉はどのような意味を持つのか。いったん立ち止まって考えてみる必要があるのではないでしょうか。

【4月16日:津波被害の現場を見る〜名取市亘理町

 3月11日に大地震が起きて数時間もたたない内に東京のテレビでは、上空のヘリコプターから仙台市若林区荒浜の海岸沿いに200〜300名の水死体が浮かんでいることが確認されたというニュースが何度も流されていました。この辺りから宮城県南部そして福島県茨城県、千葉県の九十九里浜にいたる海岸は、その北側の三陸海岸とは対称的になだらかな海岸線が続いています。そのために、三陸海岸だけでなくこれら地域にも巨大な津波が押し寄せてくることは、この地に長く住み続けている人々にとっても想像を絶する事態であったのです。さらに、海岸からなだらかな平野部が続くため、近くには避難するための高台はほとんどありません。
 また、地震が起きたときに東京の自宅にいた私は、テレビですぐに三陸海岸沿いだけでなく宮城県南部の海岸沿いでも津波被害が起きたことを知ることができました。しかし被災地では、仙台の中心部ですら地震の直後から数日間の停電が続いたために、地元の人々はその間、自分が直接に見聞できた以外の津波被害などの情報からはほぼ完全に遮断されていたようです。私たちの一行を案内してくれた人も仙台に住んでいますが、同じ仙台市内でも甚大な津波被害があったことを知ったのは、地震から4日後であったと話していました。また、3月11日の大地震か約1カ月後の4月7日午後11時32分ころにかなり大きな余震(仙台市震度6強)があったときも、宮城県内のみならず東北地方のほぼ全域が停電になり、仙台市内では再度の復旧までやはり数日間かかったと聞きました。

 当日の午前中、私たちは全労協宮城の事務所で打ち合わせをして、被災地を訪れたときと支援のボランティア活動についての確認・注意事項を聞きました。その後、車2台で仙台市内から国道4号線バイパスを南下し、名取川を越えて仙台市のすぐ南にある名取市に入ってから左折して、東側の海岸方面に向かう道路を進みました。周囲には、大規模な区画整理が進んだ一面の田園風景が続き、しばらくの間は、部分的に壊れている家屋はときおり見えても、津波による被害は直接には見受けられません。
 風景が一変するのは、海岸線の西側3〜5kmを南北に走る仙台東部道路を越える辺りからです。前述したように、なだらかな平野部の田園風景が拡がっているこの地域では、海岸線から仙台東部道路の辺りまで津波が押し寄せてきました。すなわち、5mを超えるくらいの土盛りがしてある高速道路である仙台東部道路が防波堤になって、結果的にはそこから西側に津波が侵入することを防いだのです。実際、海岸から津波が押し寄せてくる中で、周辺では唯一の「高台」になるこの道路に上って避難をした人も多数いたと聞きました。それでも、仙台東部道路と地上の一般道路が交差している地点では、土盛りの間から道路沿いに津波が押し寄せた明らかな痕跡が残っています。

 津波が流してしまうもの、それはとにかく地上にあったものすべてです。田んぼの上には家屋の資材、家電、生活用品、自動車、稲の切り株やよしずの破片、樹木の残骸、そして海岸から数kmは流されてきた漁船や漁具など、ありとあらゆるものが大量に散らばっていました。さらに、たとえこれらのがれきをすべて撤去できたとしても、大量の海水をかぶった田畑が耕作可能になるのはいつのことか、まったくわかりません。このメールを読まれた皆さんも、すでに場所は違っても、何度も映像や写真などで見られたでしょうし、目前の状況をありきたりの言葉で伝えようとしても、とても伝えきれるものでもありませんが。
 周辺には、かろうじて地上に残ったいくつかの家屋も見受けられましたが、ほそのほとんどは壁が崩れ、室内に大量のヘドロが溜まっているであおうことが容易に想像できました。
 この日の午前の打ち合わせで、被災者に向けるのでなければ、被災の風景の写真はとってもよいと聞いていました。実際、私も何枚かの被災の風景の写真は撮ってきましたが、たとえ風景のみに対してであっても、カメラを向けることの「暴力性」や「無力さ」は、どうしても意識してしまいます。それにもかかわらず、そのことを意識しながらも、いわば"Nice Shot"のための対象を探している自分もいる。混乱しながらも「いま、ここ」の姿を写真として切り取ろう、誰かにみせようと考えている自分がいるのです。アフリカなどを旅しているときに、数日間で通りすぎるだけの観光客でしかない自分が意識せざるをえない感覚が、この場でもよみがえってきます。

 私たちの一行はこの日、名取市閖上(ゆりあげ)地区周辺から名取市にある仙台空港を経て、阿武隈川を超えて亘理(わたり)町の鳥の海に行きました。いずれも、海岸からほど近い距離にあり、途中で進入禁止になっている道路や陥没箇所もあったために行きつ戻りつしながら、被災の現場を回りました。
 閖上地区の周辺では、行方不明者の捜査に動員されたのでしょうか、数カ所で自衛隊の特殊車両を何台も見かけましたが、その風景は、まさに「有事態勢」そのものであるとも言えますね。
 仙台空港は、自衛隊と米軍が動員されて、とりあえず滑走路と管制施設は使用できる状態になっているようですが(国内便は部分的に復活しています)、その他の施設やアクセスの仙台空港線は復旧していません。周囲に大量に流れ着いた車輌も多くは放置されたままで、周辺の臨港工業団地の工場の多くも、操業の再開までには至っていないようです。この場所では、津波によってさえぎるものがすべて流されてしまったのか、立っていられないほどの強烈な風に見舞われ、津波が運んできた泥が乾燥して飛散し舞い上がった砂ぼこりで、空気は茶色にそまっていました。仙台空港の近くに流れている貞山堀(貞山運河。江戸時代に仙台平野で収穫されたコメの運搬のためにつくられ、海岸線に平行して南北を流れ、七北田川と阿武隈川を結んでいる)沿いに立つと、そのままこの堀まで吹き飛ばされるのではないかと思ったほどの強風でした。
 亘理町の鳥の海は、太平洋に一部だけがつながっている内海で、漁港と魚市場、製氷工場があるだけでなく、例年は潮干狩りの一行や温泉客で賑わう観光地にもなっています。ここの魚市場の建物は完全に崩壊し、製氷工場も大部分の壁が崩れていました。そして岸壁には、大量のがれきとともに大型の漁船が打ち上げられています。その一方で、太平洋に面した6階建てほどのホテルは、下層階の内部には大量のヘドロが押し寄せているのでしょうが、遠方から外見を見る限りでは、さほどの損傷を受けていないように見受けられました。
 鳥の海からは亘理町の内陸部に向かいましたが、道路上のがれきはすでに撤去され、水たまりもないので、車でもスムーズに進むことができました。その道路の整備された様子と道路沿いの被災の風景の落差に、果たしてこれは「現実」のことなのかという感覚すら一瞬、起きてしまいます。そして、こんな時期であっても、例年と変わらずに桜の花が満開になっていました。
 仙台東部道路の南端とつながり仙台平野を南北に走る常磐自動車道を越えると、つい先ほどまで見てきたものとはあきらかに一変した「日常」の風景が戻ってきました。常磐自動車道を越えてすぐに、スーパーや書店、ドラッグストア、駐車場などを抱えた郊外型の大型商業施設に寄りましたが、そこでは地震津波の被害の痕跡は、少なくとも外見からはわかりません。各店舗の棚も多様な商品で埋まり、次々と買い物客が訪れていました。それでも、店舗のウインドーにいくつも貼りつけてあった多彩なメッセージの紙を見ると、自分がまぎれもなく被災の現場にいるということが思いおこされてきました。




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第2報が届きましたら、また紹介していきたいと思います。
茂住さん、お疲れ様です。そして、私たちに伝えてくだりありがとうございます。