被災地・個人ボランティア〜友人のリポート(2)

被災地・個人ボランティア〜友人のリポート(1)〜で紹介させていただいた茂住衛さんが、2回目のリポートを送ってくださいました。
全文転載させていただきます。
茂住さん、ありがとうございます。


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(4月24日記)

【4月17日:亘理町でのボランティア活動に参加】

(1) 亘理町の災害ボランティアセンターの風景

 前日に津波被害の現場を訪れた同行者とともに、4月17日に被災者支援のボランティア活動に参加しました。訪れたには、前日も寄った宮城県南部の亘理町。今回の私たちの行動をコーディネートしてくれた全労協宮城の関係者で、亘理町在住のかたを紹介してもらい、1日だけでしたが、亘理町社会福祉協議会社協)が運営している災害ボランティアセンターでボランティアの登録をしました。
 当日の午前7時ころに6名で車に乗り、仙台市内の宿泊場所を出発。仙台東部道路に入り、特に道路の東側(海側)の一面に拡がる津波被害を再び目の当たりにしながら南下し、亘理町に向かいました。仙台東部道路を下り、亘理町の災害ボランティアセンターに向かう途中で、「わたり温泉鳥の海 大好評営業中」と書かれた看板が目に入ってきました。「大好評営業中」と表示されたその場が、前日に見てきたとおり、いまは津波による壊滅的な被害に直面している。何も知らずにこの看板を見ただけであるならば、当然にも温泉客が訪れるありふれた観光地の風景しか連想できないでしょう。しかし、実際には明らかに異なっている。その圧倒的な「落差」もまた、とてつもない現実の一部であることを改めて思い知らされました。

 午前8時ころに亘理町の災害ボランティアセンターに到着。このセンターは、国道6号線沿いにある町の武道館を使い、隣接する町民体育館は被災者の避難所になっています。亘理町役場からは500mほどの距離で、向かい側の中央公民館も被災者の支援活動のために利用。道路をはさんだ空き地では仮設住宅の建築も始まっていましたが、このときはようやく住宅の基礎工事のための準備が始まったという段階でした。
 日曜日であるためか、災害ボランティアセンターの周辺には、東北地方の他の県や関東のナンバーを付けた車も多く駐車しており、地元だけでなく全国各地からも多くのボランティアが集まっていることがうかがえます。この日の作業の終了後に聞いた話ですが、この日は合計で約500名のボランティアが集まったそうです。ゴールデンウイーク中にはもっと多くの人が全国から集まり、ボランティア活動への参加を希望することも予測されます。
 その一方で、被災によって自治体そのものの機能が大幅に損なわれてしまつた、あるいは機能していても各地の災害ボランティアセンターでは、県外からの希望者も含む大量のボランティア希望者を受け入れるだけの態勢が整わないという問題が浮上しています。亘理町の災害ボランティアセンターのウェブサイトでも「ボランティアの人手が足りないところですが、地域の混乱をさけるため5月1日より当面の間、県外から『亘理町でのボランティア未経験の方』の受け入れを中止します」という告知がなされていました(4月24日閲覧)。

http://msv3151.c-bosai.jp/index.php?module=blog&eid=14389&blk_id=10929

 災害ボランティアセンターの入口に設置されたボランティア希望者の受付では、所定の用紙に氏名や住所、活動可能期間などを記入するとともに、ボランティア保険への加入の希望についても尋ねられます。保険料は災害ボランティアセンターが負担し、保険加入期間は申込日から3月31日の年度末まで。ボランティア保険への加入希望を伝えると、加入カードも渡されます。
 このセンターでは、家屋の泥(ヘドロ)出しやその後の水洗い作業のための多くの道具(スコップ、大型のバール、一輪車、デッキブラシ、竹ぼうき、ホース、など)が用意され、作業の際に釘を踏み抜かないための鉄板の入ったインソール(長靴の中に敷く)を大量に仕入れ、持参していないボランティア希望者に配布するなど、作業のための準備は細部まで整っているようでした。さらにはボランティア希望者のために、その場で調理したお汁粉が振る舞われていました。
 こうした点からすると、大震災の日から1カ月以上過ぎて、ボランティア希望者を受け入れるためのシステムもそれなりに整備されているのではないかという印象を受けました。とはいえ、現場での作業を行うだけでなく、受付や作業の手配などの打ち合わせの進行、道具の配布、作業現場への案内など、災害ボランティアセンターの機能の多くを担っている人たちの多くもまた、自治体の職員ではなく地元のボランティアの人々です。この日、私が紹介された亘理町在住のかたも、作業現場への案内やボランティアの送迎のために、日中は災害ボランティアセンターに常駐しているそうです。また打ち合わせの進行は、地元の高校生が中心になっているという話も聞きました。
 災害ボランティアセンタの内部には、作業の進行表、亘理町の地図、被災の様子を撮影した航空写真などが張りだされています。ボランティア希望者に対する打ち合わせでは、前日の作業の確認や注意事項の伝達などが行われ、被災者から依頼のあった今日の作業の紹介とともに、それぞれの作業を希望する人が募集されます。いずれの作業についても希望者が多く、積極的に(他の人を出し抜いてまで !?)手をあげないと、作業に「あぶれて」しまうのではないかと思えるほどでした。

(2) 床上浸水の被害にあっ家屋の水洗い作業に参加

 この日、私たちの一行6人は、この場で知り合った栃木県から来た2人組(兄妹)と組んで、計8名で家屋の泥(ヘドロ)出し後の水洗い作業に従事することになりました。このグループのリーダーを決め、依頼者に安心してもらうために、リーダーは亘理町災害ボランティアセンターとプリントされたジャケットを着用します。
 災害ボランティアセンターで必要な道具を積み、自分たちの車2台で8kmほど離れた、常磐線浜吉田駅近くの作業現場の家に向かいました。この家では、前日までには泥(ヘドロ)出しがほとんど終わっており、前日の作業を引き継いで、津波で浸水した1階部分の水洗いを行いました。この家には高齢者の女性が一人で住んでいると聞きましたが、持病の治療の必要もあり、現在は仙台市に避難しているそうです。家のカギを預かっている隣家のかたにカギを開けていただき、具体的な作業の手順についても改めて尋ねました。
 この家の居住者のかたはこの日、律儀にも私たちに直接にあってあいさつしなくてはと思われたのでしょう。私たちの昼食のために多くの食料品を購入・持参して、昼前には40kmほど離れた仙台市から駆けつけられました。

 この家のすぐ西側には常磐線の線路が走っていますが、現時点では、電車の運行はまったく復旧していません。この場所は、海岸からは2.5km程離れていますが、壁紙に残された跡から、津波によって床上50cmくらいまで(地上からは80cmほど)浸水したことがわかりました。津波によって運ばれてきた屋内の泥(ヘドロ)は、この日までにはほとんど撤去されていましたが、キッチンの床下収納を外すと、床下全面に湿ったままのヘドロが堆積していることがわかります。棒を差し込んでその厚さを計ってみると、30cmほどありました。
 またこの辺り一帯では、行政によって家屋の損壊状況の調査が行われており、この家には居住が可能であると認定した紙が貼ってありました。もちろん近所には、地震津波によって全壊かそれに近い状態になり、居住は不可能だと認定され家屋もあります。こうした家屋には、家の清掃や補修のためにボランティアが入ることもありません。また、前日にも見た光景ですが、所有者が解体や撤去を依頼するしかないと判断したことを示す赤い旗をつけた家屋や車も見受けられました。その一方で、黄色の旗を掲げた家屋や車は、補修や移動が可能であり、所有者に直接に問い合わせることなしに解体・撤去してはならないことを示すものだという説明を受けました。

 この日の作業は、ほぼひたすら1階部分の水洗いをすることに専念することになりました。家のサッシや雨戸をすべて外し、キッチンのシンクなどの什器を庭に出し(和室の畳や家電などはすでに片付けられていました)、水道はすでに復旧しているので、キッチンのビニール製の床シートや畳をはいだ和室の床板、ビニールクロスの壁紙、廊下のフローリング、玄関、風呂場などにホースで大量の水をかけ、デッキブラシなどで泥や砂や屋外に流し、ぞうきんで残った水分と汚れを拭き取っていきます。スコップで室内の泥(ヘドロ)を出し終わった後でも、まだ大量の泥や砂が残っているので、こうした作業は何度も繰り返しながら行っていかなくてはなりません。
 さらに、床の上や壁紙だけでなく、什器の中にも大量の泥や砂、ヘドロが溜まっています。この日は運良く晴天であったので、家の外に搬出できた什器やサッシ・雨戸はなど、ひたすらホースで水をかけて洗うことができました(大量の水をホースで流したり汚水を捨てたために、庭がかなりぬかるんでしまい、排水口もたびたび詰まってしまったのですが)。その一方で、キッチンのコーナーにある什器は簡単に動かすことができず、その内部に溜まったヘドロは、厚手のゴム手袋を付けた手で何度もかき出すしかありませんでした。また、実際に作業を始めてから、足りない資材があることにも気づき、隣家から新たに借りたり、災害ボランティアセンターまで取りに戻ったりもしました。

 災害ボランティアセンターのスタッフからは、「1時間に一度は休憩をとる」「できないことは無理をしない」「作業が途中でも午後3時半には作業を完全に終了する」、そして特に「がんばり過ぎないように」という注意を受けていました。しかし実際に作業を始めてみると、誰もがどうしても「がんばって作業をやりとげよう」という気持ちになってしまいますね。リーダーが「休憩にしよう」と呼びかけても、やりかけの作業があるとどうしてもその作業を終えてから休もうと思ってしまい、すぐには作業を中断することができません。また、水洗いを繰り返していくと、汚れた床や壁が表面上は元のように(もしかすると、元よりも)きれいになっていき、作業の成果を目の前で実感することができます。このことも、「がんばり過ぎた」ことの一因になっているのかもしれません。かっての電電公社時代から長年に渡って労働組合活動に参加してきたこの作業のリーダー(彼の家族は甚大な津波被害を受けた石巻市に居住しています)はその後メールで、「これこそ本当の労働者の本質なのでしょうね」という感想を述べていました。

 結局、この日の目標としていた1階部分の水洗いは、3時過ぎにはほぼすべてを終え、いったん外に運び出したキッチンの什器を元に戻し、作業のために外したサッシや雨戸も元通りに戻しました。ぞうきんでは拭き取れない床の隅や汚れも歯ブラシをつかって徹底的にかきだし、晴天であったので床・壁や什器の水分もほぼ乾かすこともできました。作業を終了したときは、どの部屋ももう靴を脱いで入るまでになりました。最後は、私たちの長靴や作業道具を家の外の水道で洗うとともに、私たちの作業でも汚れた玄関の泥をすっきりと流しました。
 この家では、廊下の一部を半畳ほどくり抜いたスペースに玉砂利が敷きつめられています。この玉砂利の上には、大人の体重がかかっても大丈夫な強度の透明のガラス板が乗っていたのでしょう。このガラス板は津波で流されてしまつたようですが、私たちが作業を開始したときには、残った玉砂利も汚れてくすんだ灰色になっていました。しかし、この玉砂利の汚れを水で洗い流すと、元の真っ白な色が戻ってきました。この玉砂利は、この家に残されたちょっとした「ぜいたく」でしょうが、玉砂利の色が戻すことができて、居住者のかたにとても喜んでもらえるのではないかと想像してしまいます。

 それでも、と言わざるをえないのですが、床下全面に堆積したヘドロは、今回の作業ではまったく取り除くことはできませんでした。床下に大量のヘドロが残っているために、これからこの家では悪臭や湿気に悩まされることも考えられます。また、津波による床上浸水だけでなく、水洗いのために大量の水をかけたことによる床や什器の傷みを避けることもできません(もちろん、大量の水をかけないとてても泥・砂やヘドロを洗い流すことはできないのですが)。床下のヘドロを撤去するには、1階の床板を一度すべてはぎ取って、床板を貼リ直すしかありませんが、この作業のためには、労力や大工技術だけでなく、かなり高額の資材の購入費が必要になります。
 家屋の水洗いを済ませても、家屋の状態を元通りに回復させることは難しい。その事実に直面しながらも、私たちの作業が、自己満足にとどまることなく、被災者の生活を取り戻すための物理的な支援の一部にもなっている。ありきたりのことですが、この日の作業を通じて、改めてこのことが意識させられました。

====(以上で、第2回目の報告を終わります)====

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