孤児の心

レインボウ・コテージ
私は、ニバルレキレの活動を始めるスタートとしての数年間を、ボックスバーグというジョバーグ(ヨハネスバーグ)郊外にかるエイズホスピスで働かせてもらいました。2003年というのは、貧しい感染者がARVに全くアクセスできずに、ばたばたと亡くなっていた時期です。そのホスピスは、カトリックフランシスコ会で運営されるセントフランシスケアセンターという施設です。2004年にはARTクリニックという積極的な治療を行うクリニックも開設し、現在は総合的なエイズケアセンターとなっている場所ですが、当時は、病棟=ホスピスであり、毎日多くの患者さんが亡くなられていました。今もエイズによってたくさんの人が亡くなる状況は続いています。1992年に開設されて以降、年間に平均300人前後を看取っている施設です。ホスピスの日々は、おいおい書いていきます。

 今日はホスピスの庭の向こうにある「レインボウコテージ」という感染孤児のための病棟のことを話します。この病棟に入院する子供たちは9割は全く身寄りがなく、そして多くは母子感染、なかには本当に心が痛むことですが、虐待や暴力などの被害にあってHIVに感染した子がいます。0歳から就学前までの年齢の子を中心とした病棟で、就学時には里親のもとや、小学校に通いやすくメンタルケアなどのスタッフも多い「アップワース」という施設に移ります。 レインボウコテージができたのは1998年ですが、2003年に私が働きだすまでに入院した子供の数は、214人。そして2003年までにそのうちの118人の子供が亡くなりました。HIVウイルスは幼い体をどんどん攻撃していくのです。2003年はまだ、たくさんの子供が亡くなった年でした。
 亡くなる前の数日を可能な限りは、ベッドなどでずっと抱きしめて過ごしたり、本人が少しでの楽な姿勢をとれる工夫をして手を握って讃美歌などをうたいながら過ごします。小さな亡くなった体は白い布にくるみます。霊安室へ運び、身寄りのない子供のお葬式はセンターの皆であげました。もちろん病棟の子供たちも参加します。大切なお友達とのお別れの日ですし、子供の信頼する大人たちがあげるミサによって、子供たちに死を怖くないもの、私たちがついていること、をなんとか理解してほしいと皆で考えていました。「あの子は天使になったのね」「神さまのところで遊んでいるね」という安心を得てもらうことが必要と私たちは考えていました。
 それにしても、亡くなる子供にとっても、友達を失う子供にとっても、なんと過酷で、辛くて悲しい体験だったでしょう。子供たちにはどんな悲しみや傷が増えていったのでしょうか。親がいないことだけでありません。治らない病を自分が持っていることを幼いながらに知っています。友達の死を見ながら、それでも何もなかったように皆たくましく元気に過ごしていました。その元気さに大人の方が甘えていたのかもしれませんね。センターではとても大人は複雑で辛い光景を見て過ごすことになりますから、よほどの人間としての成熟や子供に係わるスキルの熟練がスタッフには必要な場所だな、と思わされました。スタッフも心のケアを必要としている、そんな生活でした。同時に、とにかく理屈や理論でなく、子供は愛して抱きしめてかわいがる、それに尽きる!という確信もあり、その点は仲の良いスタッフとも一致した考えだったように思います。ただ、切ないことには。
 ふつう子供たちは具合がわるいときには、辛さから甘えたり、痛みを大人に訴えますよね。でも、ケアセンターの子供は日常では、あれだけ甘えて飛びついてきて、離れようとしないのだけれど、風邪や下痢や、はしか、水疱瘡といった幼児のかかりやすい病に加えて、免疫の低下した子供が罹患する日和見感染、例えば髄膜炎や、危惧される下痢症状、白血病などの癌、食堂炎などのために食事がのどを通らなくなったり・・そんな辛くて心細いときに限って、一人でじっとプレイルームの隅のマットレスや、誰も友達がいない部屋のベッドで寝ているのです。
 具合が悪いことを子供が大人に隠すほど切ないことはありません。ケアセンターもそうですが、孤児はほとんどの子が、お母さんに普通ならすがるような場面を一人で耐えて、孤独や死に怯えている気がします。抱え込まなくていいのよ、あなたの目の前にいる大人に甘えていいのよ・・・伝えることは大変です。抱きしめることって、簡単なようで、簡単じゃないって思います。
 センターの子供たちは、今は早い段階でARVによる治療を行い、他の医療機関とも連携して、子供がきちんとサバイブしていける環境となりつつあります。それでも、子供の死を完全に免れることは困難です。また。孤児のこどもの心のケアを、1箇所の施設で同じスタッフが親のように継続して行うようするのは大変です。ケアセンターには、治療を必要としている乳幼児の待機が控えていますし、就学のことも考えなければ。そうすると、暮らす環境が変わるというストレスを、ただでさえ寂しさを抱えた子供が体験することになります。
 私は、本当にこのケアセンターの子供を我が子のようにいとおしく思いながら過ごしてきました。でも、実際に自分が本当に出産・子育てを現在経験してみて、母親ならではの強烈な我が子への愛情というものを自分の内面にみたときに、初めて、私を「ママ」と呼んでくれていた、いとおしい子供たちの寂しさの奥底を理解できたように思います。

 ニバルレキレとしては、彼らには施設生活での保育全般や、服薬の支援などの他に、工作や絵画活動、ボディペインティング、誕生日会、ピエロショーなど遊びの提供を行ってきました。活動の中でトラウマからのメンタルの問題や、発達の問題などが目立った子供たちの処遇が新しい施設でうまくいくように申し送りをして、就学時には支援学級に入りつつも、生活は慣れ親しんだ仲間と送れるように、ソーシャルワーカーによるアレンジをお願いしました。
 
 この子供たちへ、2009年までの3年間、箱庭療法という働きかけをしたのが、6月7日に神戸で報告会を行う心理の方たちのプロジェクトです。会場にもしも、子供の絵画作品や写真が飾られていましたら、その中には、亡くなった子供たちがいることをご理解いただき、その子供たちが精一杯、亡くなる瞬間まで輝いて生きた証だと作品に触れてみてほしいと思います。
 また、6月20日に南アフリカチャリティーコンサートが行われる世田谷区の赤堤教会では、6月12・13日の週末と、6月19・20日(コンサート終了後まで)の週末に、ニバルレキレ展を開催します。こちらでも、ぜひ子供の作品や写真、ニバルレキレで活動しているタウンシップの様子など写真でご覧になっていただくことができます。ぜひお越しくださいね。