おめかしして。

ちょっと重い話題を続けてしまったように思います。
元気な、スクウォッターキャンプ(スラム)の子供たちの写真の1つを紹介。

このスクウォッターキャンプは、ナタールスプレイト病院という公立病院の少し裏手の方に広がるスクウォッターキャンプです。
ナタールスプレイト病院は、だいたい、Katlehong(上手な発音はけっこう難しいので、カテホンと書かせてもらいます。)と、Tokoza(トコザ)とVosloorus(フォスローラス)の地域住民が利用することの多い公立病院。病院の手前に屋台が広がっていたり、ちょっと猥雑な雰囲気があったり、ツォツィ(不良)もいたりする一方で、どこかのんびりとした時間が流れている地域です。危なさもあるけれど、住民にとっては大切な必要な場所なので、荒廃した感じではありません。

だいたい、こういう何か便利さにアクセスできる場所で、広大な空き地があると、スクウォッターキャンプができあがるようです。
たまに、「なんでここに?」と生活の利便性の面からは不思議な場所にもスラムはありますが、この写真の女の子たちの住む場所は、割と必要なもの、医療やお店や学校などには子供の足でも日々通える感じです。

友達を訪問していたら、近くの子供たちが寄ってきて、「写真とってくれる?」と頼んできたので、パシャリと一枚撮りました。
どうも、真ん中にいる女の子が、ヒラヒラレースの可愛い服をお母さんが手に入れてきてくれて、それがとてもうれしいみたいです。
スクウォッターキャンプで生活する人にも、外に働きに出ている人はたくさんいるので、必ずしも暮らしが貧しいというわけではありません。車が停まっているのを見ることもあるし、家電製品を電気は通っていなくても、車につんだバッテリーで動かしていたり、ファッションモデルのようにお洒落した女性たちにも出会います。全身真っ白のスーツに白のピンヒールをはいて「これから仕事よ」なんて出かけていった女性に会ったこともあります。
一方で、生活が苦しい人たちが、優先順位としては下にくる洋服をどのように調達しているのかな?と最初のうちは疑問だったのですが、
いくつかのスクウォッターで、見かける光景に少し納得がいきました。
曜日が決まっているのか、不定期かはわかりませんが、たまに歩いていたり、乗り合いタクシーからだったり、眺めていると、人だかりになっている様子が目に入るんです。よーく、見ていると、まんなかにリヤカーや、大きなダンボール、ポリ袋といったものが、ドーンと置いてあって、どうも「好きに持っていけ」ということらしい。つい、好奇心の強い私は、そばに寄っていって、「これどこから来たの?」なんて、おばちゃんに聞いてみたけれど、その人もよく知らない。たまたま見つけたこのチャンスを逃さない!という感じで、真剣に洋服選びしているので、邪魔をするのはやめました。
以前、ジェノフォビアという外国アフリカ人襲撃事件があったときの、避難所にも、避難所ができて数日たってから大量の衣類が届いていました。
教会やNGOや、慈善団体のようなところを経由して、そういった古着が集まるようです。
スクウォッターは1つ1つが広大で膨大な数の人が住んでいて、個別に「困っているかもしれない」人を、赤の他人が見つけ出すのはほぼ不可能です。それに、危険というイメージがあります。実際に危ないし、まず案内人がいないと迷ってしまいます。
全員に行き渡るほどの数もない服を、約束はしないけれど、チャンスがあったら、入り口なり広場に置いておく・・すると、ちゃんとそれを見つけた人が活用する・・そんな様子です。
もちろんスクォッターの中で活動しているNGOがある場合には、そういったところに寄付は届いて、NGOのスタッフはそこで暮らす人ですから、きちんと考えて寄付の分配をしています。

話が長くなってしまったけれど、女の子のヒラヒラの服は、個人的には「この子にはもっとアクティブな雰囲気の服が似合うよな〜」なんて思いながら、でも幸せそうな彼女の顔に、私も幸せでした。女の子って、どうもフリフリヒラヒラした服に憧れる時期があるのは、世界共通のようです。
この写真の後は、彼女の家族全員の集合写真もとりました。

訪問した友達は、その後1年少したった頃に、エイズで亡くなりました。この日に撮った、友達とお母さんの二人の写真(彼女はお母さんと二人で暮らしてきました)が、私の手元にある彼女の最後の写真になりました。悲しさを、少し癒してくれるのは、この日の、スクウォッターのみんなの明るさ、賑やかさの記憶です。