プムラ

プムラ(仮名)と出会ったのは、テンビサというタウンシップの外れの方に建設が続くRDPハウスだった。RDPハウスは、アパルトヘイト後の民主政権になってから、政府が貧困家庭を対象に建設している無償のマッチ箱のような一戸建て。日本人にとって一番感覚として近い住宅は都営や市営住宅かもしれない。
このRDPハウス入居のためのウェイティングリストは長く、なかなか入ることができない。仮に誰かがここに入居できると、その人がそれまで住んでいた、タウンシップで借りていた部屋や、スクウォッターキャンプ(スラム)でのシャック(掘っ立て小屋)には、新たな地方からの流入者や、外国アフリカ人が入ってくる。それによって、ジョバーグ近郊のタウンシップは、人口が膨らみ続けている。

プムラとの出会いは、友人がRDPハウスにめでたく当たり、室内の壁塗りや窓の鉄格子づけなど、いろいろと生活準備をしているのを、冷やかし半分にのぞきにいったことがきっかけだった。鉄格子をはめないと、窓が盗まれる。意図的に誰かが盗んだ窓は、ちゃんとルートがあってそれを使って次のRDPを作るんじゃないか・・なんていう笑っていいんだかわからないような冗談がタウンシップにある。信じそうにこちらもなるところが南ア。とにかく防犯のためには鉄格子は必要なので、無事にそれがついたことで友達は安心していた。

友達に言われたから歩いていったのか、偶然に少年に出会ったのか、正直なところ記憶が定かではないのだが、その日ご近所をプラプラと一人で歩いていたら、一生懸命に庭をつくって手入れしようとしている子供にであった。声をかけると、「ママは病気で部屋で寝ているんだよ。ここに野菜を育てようと思うの」とその男の子が教えてくれた。

トントン。「ゴーゴー」。鍵はかかっていないので、その場合には1〜2歩室内に足を踏み入れることは失礼にあたらない。天井からつるされた、部屋の仕切り代わりの擦り切れた布越しに「誰?」という女性の声がきこえた。彼女のいるベッドのところまで行く許可をもらえたので、室内を見回しながら歩いていく。ほとんど何もない家。電気コンロとそれを載せるキッチン用の棚はあるものの、洋服をしまうクロゼットはない。ベッドは二つ。男の子と彼女のものだろうか。衣類はプラスチックのカゴが半分埋まるくらいしか持っていないみたいだった。天井から照らす照明がないことにも気づいた。

入ってきたのがアフリカ人でなくアジア人だったので、最初は驚いた様子だったが、テンビサに自分がいる理由や普段の仕事をなんとなく自己紹介すると、すぐに打ち解けてくれた。

彼女はやはりHIV陽性者だった。よそ者だったせいか、警戒心もなくそのことを話してくれた。そして辛そうな様子を見ていると、エイズを発症している状況のように見えた。四苦八苦して慣れない手続きを終えて、ディスアビリティグラント(障害者給付)がもらえるようになったという。つまり、CD4カウントは200は切っていることは間違いない。体力を消耗している様子に見える、その辛さを労いながら、通院の様子をきくと、結核と言われているので、小さな息子をあっちの離れたベッドに寝かせないといけない、あの子は本当にいい子で、私がこうやって動けないから、いろいろなことをやってくれるの、と教えてくれる。とってもいい子に見えたと同意すると、深く頷く彼女。

それにしても、ようやくRDPハウスに入れ、ディスアビリティグラントも支給されているというのに、彼女の家は何かとても、わびしいものを感じるのはなんでだろう。モノがない貧困から感じるわびしさとは違う。エイズの母と、健気な子供という、そういう悲しさとも違う。エイズか来る死の恐れとも何か違う。家族の抱える何か。
「なんだか辛そうに見えるわね」思い切って尋ねてみた。

プムラは教えてくれた。
この子の上に、もう一人もういい年をした長男がいるの。ほとんど家になんか帰ってこない。どこで暮らしているんだかもわからない。彼がディスアビリティグラントの支給日の後にだけ現れて、お金をほぼ丸ごと持っていってしまうの。息子だけれど、あれはもう不良だし怖くて拒否できない。お酒?わからないわ。私が知っているのは、彼がそのお金で、カーニバルシティ(賭博場)で過ごすことくらいよ。

私はエイズ。この小さな子とどう生きていったらいいのかしら。この子を・・。私が・・。考えるのはまだ怖いわ。

プムラはARVのウェイティングリストに自分の名をのせてもらってあるかどうか知らなかった。

ディスアビリティグラントや高齢者のペンション(年金)に何人のも家族が寄生して暮らしているという状況には、数多く出会っている。そして支給日後に強盗が多いことも知っている。それらはタウンシップでは聞き慣れている話だけれど、エイズの母からむしり取ったお金が、生活費ではなく、ギャンブルに費やされる。とても悲しかった。その息子の心の闇には私は近づけない気がした。

アフリカ人は優しい人が多い。彼女の放蕩息子のような存在から、自分との連絡先を絶つことは不可能ではなにのに、教えてしまう。ADPハウスに移ることが決まったときは、もしかするとチャンスだったのかもしれない。それとも、長男も家族の名前で登録してあったのだろうか。小さな男の子が結核のお母さんから、移らないようにと、カーテンの向こうで寝るあのベッドは、その放蕩息子のものかもしれなかった。
息子を捨てられない、彼女の優しさが、どうにもいたたまれなかった。

母親というのはそういうものなのかもしれない。
とある母に日本で、「家族であっても捨てていいのよ」という言葉をかけたことがある。日頃「開放されたい。開放されたい。」とため息をついていた彼女に、「捨てて野たれ死んだ知らせを受け取ったとしても誰もあなたを責めない」と話した。覚悟しなければ縁が切れないことは彼女も私もわかっていた。彼女からの返事は思ったよりも早かった。「捨てられないわ。だって私の生んだ子供なのよ。つきあうのも覚悟なんだわ。」その後、彼女は「つきあう」という覚悟の元に暮らしているが、息子の方にその壮絶な悲しみが伝わる気配はいまだにない。

プムラの優しさを知っていて寄生し続ける息子に、出会ったこともないのに腹がたって心が落ち着かなかった。多くのこれまでに聴いてきた母親たちの声が重なって響いているようだった。

私に言えるのは、「長男を愛していたとしても、プムラは愛する次男とエイズの自分がきちんと食べていく食糧は確保していくことも、生きていく母としての義務なのよ」 ということだけだった。

諭す権利など私にはない。ただ、ベッドに腰かけ、プムラが痛いという足や肩や背中をさすりながら、何かを言わずにはいられなかった。

プムラがマッサージで少し体が楽になった、「明日からできるだけ日向ぼっこくらいはしてみるわ」と言ってくれたので、ちょっと彼女の暮らしに介入させてもらうことにした。つまり、家にある食糧チェック。
たいていのタウンシップの家では、私はこの食糧チェックが欠かせない習慣になっている。表向きにそろっている家財道具の多い・少ないは、全くその人の暮らしの貧しさのスケールにはならないことを経験的に学習したからだ。家具などは、無責任にローンを組ませて買わせる会社があちこちのタウンシップ近くのショッピングモールにあるので、お金がなくてもなんとか、手に入れられてしまうのだ。
見栄をはり家具を調える人もいれば、ボロボロのマットレスと数枚の服とコンロしかなくても、子供にしっかりと食べさせている家庭もある。

ちなみに、食糧チェックをするには、ちょっとした場の流れと関係性からのタイミングを逃さないことが肝心だ。ノウハウとして伝授するようなものではない。ただ、相手へのリスペクトを重んじている態度がこちらにあるかどうか、警戒心も強いアフリカ人がじっとこちらのことを判断している中で、何らかのゴーサインが彼らの心に出されるタイミングというのがあることだけは確かだ。遠慮して遠まわしにしかSOSを出せない人も多いので、少しばかりの強引な場の運びも、緊急性によっては必要になる。プムラは、ぜひ自分の家の実情を見て欲しい、全部見てくれて構わない、と言った。

プムラの家の唯一の家具、電気コンロの下の棚は、空っぽだった。コンロの上の鍋2つには、それぞれ、パップ(とうもろこし粉をふかした主食)と緑色の草が煮詰まって入っていた。マションベという湯がいてサラダなどにも使えるサッパリとした味の野草だ。煮詰めて調理するのを見るのは初めてだった。パップだけでは子供がかわいそうなので、道端に生えているマションベを探してつんできたのだと言う。
その日周辺を私が歩いた限りでは、このRDPハウスの建つ一帯でマションベは見あたらなかった。プムラも、かなり歩いて見つけなければならなかったので、それで、足が痛くて仕方なかった・・と悲しそうに笑う。

「明日からどうするつもり?」「わからないわ。神様しかわからないわ。でもあなたがこうして来てくれて、私の話をきいてくれたわ。少しはマシよ。」

彼女に夕方また来ることを告げて、友達の家へと舞い戻った。一応その日に集まっている顔ぶれは、誰もがHIVエイズのこと、子供のこと、コミュニティのことに関心のある若者たちだった。
プムラのプライバシーを私が勝手に言うわけに行かないので、ご近所さんが困っているから、食料を買うお金をこちらで用意するから、なんとかしてあげたいということをお願いしてみる。

こういうときに困ってしまうのは、気になると私はさっさと動きたくなる性質だが、アフリカ人は動かないこと。ひととおりおしゃべりが終わり、終結しないと、絶対に動かない。それを、のんびりと待つしかない。しかし、あんまり夕方になってしまって、界隈を闊歩する人が増えてしまうと、誰かが誰かの家に食糧をぶらさげて入ったなんていう目撃者が出てきて、それは後日のトラブルの引き金になる。下手すれば犯罪で誰かが命を失う。プムラか、或いはRDPハウスに引っ越したばかりの友人が強盗に入られる危険。それだけで済まない場合も多い。どちらの家にも幼い子供がおり、そして女性が住んでいる・・。
ブツブツ不満気につぶやく私に、友人達も不満気な顔を隠さなかったが、重い腰をあげて、プムラの家に行ってくれた。
行ってからは、状況を悟った誰もがプムラに親切だった。プムラも思い切ってズールー語で相談をしていた。サポートグループをやっているメンバーには、何か書類のことでの相談もすることができたようだ。

数人で、近所の雑貨屋に出向いて、ミリミリ(とうもろこしの粉)と野菜、缶詰に卵の大きなパックを購入して、プムラの家に届ける。買い物も、届けるのも、同じアフリカ人のコミュニティの仲間が行うことが一番だ。
プムラの息子が嬉しそうに帰ってきた。翌月の12月にイベントへ呼びかけている対象はエイズ遺児だったが、パーティーをやるからいらっしゃいと彼も誘うことになった。あそこに引っ越してきたお姉ちゃんは、家庭菜園の作り方を知っているからね。男の子の目がキラキラした。

その後その友人宅へ行くときには、プムラの家を訪問した。今日は、外を散歩できたわ。今日はベッドから出られなかった・・。短い会話と、あとはゆっくりと体をマッサージして夕暮れまでのひと時を一緒に過ごした。夕暮れまでは少年も安心して少し遠くまで遊びにいくようになってた。
しかしプムラは衰弱していった。そしてちょうど私が日本へ帰国している最中に、彼女は亡くなった。小さな少年は親戚の家で暮らすことになったとのことだった。葬儀その他の知らせは、RDPハウスで出会った仲間たちから日本に届いた。

プムラのような女性はこの南アにどれだけ存在するだろうか。
父性を放棄し、家族として登場すらしない男性。エイズの母からお金をむしりとる青年。不安の中で必死に家族を、家を守ろうとする小さな子供。

私達は出会った子供達全てを母亡き後に追いかけていくことはできない。プムラや少年が、ニバルレキレが応援しているタウンシップのエイズ遺児支援プロジェクトの子供達に重なる。子供達の笑顔に、少年が今も笑顔であることを、願ってしまう。子供を産んでプムラが幸せであったことを、願ってしまう。