ノムタンダーソ(2)

ノムタンダーソは、どんどん小さくなっていきます。
もう自分で歩いて友達のところへ行くことはできません。
トイレに行くこともできません。
言葉を発する元気もありませんでした。

口からとれる食べ物や水分も少なくなっていて、おむつも確認しても乾いていることがほとんどです。このホスピスでは患者さんへの点滴などは行えません。自分の口で何かを飲み込むこと。それができるかどうかが、残された命の時間に大きく関係しています。彼女はがんばって、ゆっくりと、本当にゆっくりと、スプーンについだスープやジュース、それから脱水を防ぐために看護婦が用意した水分を、飲み込みます。スプーンが口に触れるととても痛いのを、静かにじっと我慢しながら、慎重に飲み込んでいきます。生きるためのひとくち。ひとくち。それを祈るように見守るしか私にできることはありません。4口、5口も飲むと、疲労しきってしまいます。しばらく抱いてから、ベッドやソファーに体を横たえるのを手伝います。
ノムタンダーソは寝そべりながら、じいっと、一言も話さないまま、私の腕の産毛や、服のボタンなどをいじっています。目を合わせるという行為は、エネルギーを使うものです。弱ってきた彼女のその小さな瞳の視界に入るものはだんだん少なくなっていくようです。でもその視界に入ったものに、精一杯の子供なりの好奇心でもって、手をのばして触ってみたり、いじくっている。そして、私が話したり、歌ったりすることをじっと聴いている。院内学級の生き生きとした彼女の絵を思い出しながら、私は思いつく限りの歌を歌っていました。

毎日そうするうちに、院内学級へ行っていた同じ部屋の子供たちが帰ってきます。病棟中が急ににぎやかになります。彼女が今いるのは5人分の小さなベッドのある部屋。その部屋は、3歳前後の子供のための部屋で、彼女のような大きな子供の部屋は別です。大きい子供といっても5歳の子供の部屋です。
5歳までがこの病院で主に過ごす年齢です。この施設は基本的には就学前の年齢の子供たちが過ごす病院なのです。子供の足で通えるプレスクール(小学校入学前の1年間のクラス)・小学校は近くにないので、5歳までのうちに、最大限の努力をして里親を探したり、見つからない場合にもなんとか健康を維持している子供は、隣町のジャーミストンにある養護施設に移っていきます。そこなら近くに学校もあるし、ここよりももっと家庭的な環境が保障されているから。7歳の彼女がここにいた、というのは彼女が就学時期には既にかなり弱って入院生活以外は困難と判断されていたことになります。普通は、まずは5歳でここを卒業し、その後体調を崩した場合に病院へ戻ってくる、ということになっています。といっても。その「普通は」が、本当に「そのとおりです。」と言えるようになったのは、ごく最近のことです。
ノムタンダーソがいた頃は、ノムタンダーソの年齢まで元気で過ごせていた子は少なかったのです。ほとんどの子は、この病院で、他の世界を知らないままに6歳にならないうちに亡くなっていたんです。
昼に院内学級から帰ってくる子供たちのことは、また別の機会に書いていきますが、彼らも今すぐARVを始めなければいけない状況にあったのですが、当時はその希望がない中、子供らしく元気一杯に過ごしていました。
本当に元気。もちろん元気さは「健康な子」の力強さには叶わないけれど、元気一杯です。

そんな彼らが戻ってくると、ワラワラとノムタンダーソの寝ている部屋へ押しかけてきます。5歳児と一緒だと疲れてしまうので、彼女は別の部屋に移されているのです。でもみんな彼女が気になって仕方がないのです。
「ノムタンダーソ!」「ノムタンダーソ!」彼女の名前を皆でコールします。リラト、ノムタンダーソは起きてる?ご飯食べた?あれ、耳が痛いんだよ。ノムタンダーソは病気なんだよ。前にいた子もそれで、死んじゃったんだよ・・。ノムタンダーソはどうなるの?ノムタンダーソはリラトの子供なの?友達なの?この部屋小さい子の部屋なんだよ。7歳なのに変だよね。なんでだろう。ノムタンダーソはもっと元気だったんだよ。死んじゃうと、ここからいなくなるんだよ。ねえ、今日これ歌ったんだよ。見てみて・・。
ワイワイ、皆が話し出したとたん、それまでの視線の定まらなかったノムタンダーソの瞳がキラキラと輝きだして、なんとか懸命にみんなの方を見ようとします。子供たちの中には大きな絆がありました。大きな絆の中で、みんなで自分たちの抱えているエイズという病気と、子供なりにしっかりと向き合っていました。子供は大人よりも心が強くて美しいとすごく思うのは、ノムタンダーソが元気だった頃と、ぜんぜん容貌も変わってしまっていても、そういった表面的なことは、ノムタンダーソという友達への何か遠慮には全くならないんですね。無邪気にずっと一緒に育ってきたノムタンダーソとおしゃべりしたい。でも彼女のようになった後に他の友達は死んでいったことをわかっているから、それも予感している。そして正直に死を口にできる。でも、やっぱりよくわからないし、リラトがずっと彼女に付き添っていることも不思議。どうして自分たちと遊ばないの?とも思う。ワイワイ、ワイワイ、どんどんと子供たちが私の背中や膝や肩にかじりついてきて、隣のベッドの柵によじ登って、ベッドの所有者の3歳の子が必死で自分のベッドを守ろうと足を引っ張って悲鳴をあげるわで、すごい騒ぎになっていきます。
ノムタンダーソが、目をつぶりながら、小さくクスクスと笑いました。
出会って初めてみる笑顔でした。長いまつ毛が揺れています。美しい少女に育つはずのノムタンダーソ。乾いた唇を久しぶりに食事以外のことで開いたのでしょう。ちょっと口元に指を当てています。
唇に塗るクリームをシスター(看護師)にきくと、どれでもいい、とのことなので、明日はワセリンにアロマオイルを入れてクリームを作って来ようと思いました。

翌日。青空がいつものように広がっています。朝病棟へ向かうと、早々からノムタンダーソは日向ぼっこをしていました。楽しんでいるというよりは、シスターに運ばれてきてチョコンとクッションに乗せられて、そのまま過ごしているように見えます。いつものように痛い耳に手をあてて、乳児たちが庭で転げまわるのをボーっと眺めているような、見えていないような、です。小児病棟の柵の外にいる私には気づきません。近寄り、声をかけます。ノムタンダーソ、今日は気分はどう?ノムタンダーソは答えませんでした。昨日の瞳の輝きは消えていました。

翌々日。早朝にノムタンダーソは亡くなりました。朝私が行ったときには、彼女は既に霊安室へ運ぶために白い布にくるまれていました。子供たちとは病棟ではお別れの対面はさせないことになっています。早朝子供が起きる前に、彼女の遺体は庭の向こうにある霊安室へと運ばれます。片手でも持ててしまうほどの軽さでした。
南アでは日本と違い、亡くなった人の体は清めた後は裸にして、足に身元を確実にするためのベルトをつけ、遺体は白い袋でくるみます。その先は、葬儀を執り行う家族や宗派などに任されます。
裸のノムタンダーソが寒く冷えた霊安室で、大人の遺体に混じって一人で横たわることを想像すると、胸が痛みました。胸が痛んだところで、そのようにするしかない。これが現実なのです。エイズで子供が死ぬというのは、そういうことです。ノムタンダーソは身寄りがゼロではありませんでした。母親は彼女を生んでまもなくエイズで亡くなっています。親戚は彼女の引き取りを拒否しました。彼女が死んで、その遺体を引き取り葬儀をあげることには親戚は同意してくれました。少なくとも、何日もあの霊安室で、誰かが来るのを待つ必要はなくなりました。霊安室で、ノムタンダーソとお別れをし、その日の夜は一人一人の子供といつもよりも長く抱き合って、ノムタンダーソのことを何人かの子供とは話して過ごしました。

これがノムタンダーソとのお話です。
私は、先日ブログで、初めて看取った子供だと書きましたが、「看取った」」ことにはならない、と本当は思っています。看取るほど、彼女に寄り添えなかったと思っています。何もできなかった。ただ、ノムタンダーソのことを覚えていたい、仕草を記憶していたい、温もりをこれから先も忘れないように・・そんな自分サイドの気持ちで、一杯だったことを今も記憶しています。子供の心に寄り添うことの難しさや自分の無能さが、痛みとなって残ったノムタンダーソとのお別れでした。しかも、亡くなったときにそばにいたわけでもないのです。何十人という子供や大人のいるホスピスで、誰かの本当に亡くなる瞬間に立ち会うということは、正直困難です。頼めばシスターは教えてくれますが、瞬間に立ち会うことが大切なのか、最後の日々の何かを共有することが大切なのか、看取るとはどういうことなのか、このホスピスで、ずっと悩んでいくことになりました。
ノムタンダーソについて言えば、ずっと一緒に育った子供たちの寝息の聞こえる部屋で旅立ったことが、彼女にとっては、下手な大人がいることよりも旅立つときに怖くなかったのではないだろうか?もちろん彼女が信頼している大人が寄り添っていることで、彼女の旅立ちが勇気づけられたのだろうか?とも思ったりしたけれど、私は彼女が信頼している大人が誰なのか、何も彼女とは話せないままになってしまいました。

院内学級に残した彼女の絵。コンテナを改良しただけの、鉄の四角い部屋にたくさん飾られた子供たちの絵。その部屋で、彼女はどれだけ笑ったのだろう。友達と抱き合い、はしゃいだのだろう。どんな夢を見たんだろう。夏の太陽のまぶしさの中を、冬の冷えた風の中を、友達と手をつないで院内学級に通っていた彼女を、私も見て見たかった。
ニバルレキレ展を日本で巡回させたい、とホスピスの神父の了解を得て、院内学級の先生のルイーズに話したとき、ルイーズは大切なノムタンダーソや他の亡くなった子供の作品をたくさん、私に託してくれた。
「たくさんの人で見てあげてね。たくさん。少しでもたくさんの人に、彼女たちの命を伝えてね。」
展示会を始めることを決めた時点では元気に作品を中心的な存在になって作ってくれた少年も、その後エイズ発症によって(正確には癌によって)亡くなってしまった。
私は作品の整理が苦手だ。時々整理することが大切なのだけれど。
それなりの量の絵画作品などがあるのだが、一枚一枚に触るごとに、その絵を描いたときの光景がフラッシュバックのようにリアルによみがえる。亡くなった子がリアルに私の頭の中では動いている。ほとんどの子供が膝の上で無邪気に笑っている。子供たちはいないのに、目の前に絵がある。不思議で仕方がない。もう何年もたっているのに、なにかないかと絵に顔を近づけて匂いをかいでしまう。絵の具の匂い、年数のたった紙の古びた匂いしかしないのに。わかっているのに、何か魔法でも期待しているみたいに、いつまでも絵をなでていてハッと我に返ったりする。触っていると、ドキドキしてくる。何か命を預けられているような感覚。ずっしりと重い何か。
子供たちを思い出すときに、つきまとうのは、「私は何もしなかった」という罪悪感だ。子供たちがなぜ死ななければならなかったのか。それは、南部アフリカの貧しい人たちが、HIVの発症を抑えるのに有効とされるARVという薬を手に入れられなかったからだ。母子感染を防ぐ薬が無料で投与されるようになることを、製薬会社や先進国が邪魔したからだ。感染を防ぐための教育がきちんと行われていなかったからだ。そういう取り組みをする予算が十分に国にないのは、どうしてか。豊かな国が豊かさを手放さないからだ。日本の私たちが、世界で起きていることに、目を開いていないうちに、世界中でいろいろな悲劇が生まれている。
ノムタンダーソも、他の子も、誰一人、何かできるはずなのに何もしなかった私を責めることなんかしないで、じっと病気の辛さと闘いながら、子供らしさも失わずにがんばって生きて、そして亡くなっていった。
今ではARVによって元気にサバイブしている子供も増えたけれど、それでも大変なことはたくさんある。

まだまだ書かなければいけないことが山積みだ。7年書けなかった理由は、自分でもよくわからないけれど。今もまだ書けないことが多いけれど、書くことでニバルレキレもまた進んでいくように思っている。