シスター・ローズ

まだブログで途中のままになっている話『ザネレ』で登場する、シスター・ローズは本当に情報通だ。
地域で誰が困っているか、彼女と一緒に活動したら毎日訪問する先には事欠かないくらい、相談を受けたり、ゴシップを耳にしたり、自分から誰かの家を訪問したりしている。

この病院のスタッフには彼女のように地域で困っている人の力になりたいと思っている人が少なからずいる。ただ、それを誰に伝えたらいいかで皆長年悩んできた。
理由はいろいろあった。

1つには病院で自分の指示されている仕事の範囲をこえた言動をとってしまうと、婦長や経営陣に叱られてしまうこと。いったい誰に怯えているんだか?と横で見ていて首をひねるくらい、業務として指示された以外のことをやることを恐れている。例えば私がやっている患者さんの足浴を「とてもいいわね・・素敵なアイデアね」と見つめるスタッフに、一緒にやることを誘うとブンブンとクビをふって後ずさりしてしまう。
最初のうちは、患者さんのQOLという発想がないのだろうか、興味がないのだろうか?と「私としてはもっと、やれることが具体的にあると思う」という自分の気持ちの、落としどころに苦慮して過ごしたものだった。
「誰のことが最優先なの?患者さんでしょ?」なんて思いながらスタッフにしつこく、患者さんへのケアに新しいものを加えることを提案した時期もあった。自分のやっているケアの根拠を婦長や医者に書類で書いて提案したり、同意するスタッフを誘ったりしたものだが、途中から誘うことをやめた。
皆の「恐れ」が相当なものであることに気づいたからだ。何かしてしまって「クビになる」恐れ。「経営者」と自分たちの間の見えない溝。何かしたことで貴重な仕事仲間から「陰口やうわさをされて、つまはじきになる」恐れ。「ジェラシーをかう」恐れ。個々人の頑迷さ。
何よりも「先行く者がいない中で、新しいことを、自分の意志で決めて始める」ことへの大きな恐れ。
先行く者が、日本から来たボランティアスタッフでは、彼らの勇気にはならないのだ。
それらは、この国のアフリカ人がアパルトヘイトなどの歴史の中で刷り込まれたものなのか、それとも南アフリカ人の気質なのか、単にこの病院の体制や性質が彼らをそうさせているのか。なんであれ、ありのままの彼らと、私はつきあっていけばいいのだと考えを変えた。
「言われたこと以外やってはいけない」「やるなんて発想はありえない」という態度ながらも、真面目に、そしておおらかに働いている彼らが私は大好きだった。落としどころは「自分がやればいいや」というところに落ち着き、それからは病棟のあちこちから、「リラト、マッサージお願いね」「リラトこの人足浴したいの」「リラト、この人に床ずれができそうなの」「リラト、あの人が話をゆっくりしたいの」などいろいろな声がかかるようになり、リラトの業務とやらができあがっていった。自分達を不安にさせる相手ではなくなった、ということなのかな?なんて得心しながら、自分も自由な気持ちで病棟で働けるようになっていった。

時間を見つけてはスタッフそれぞれとじっくり話していくと、意外にも多くの人が、「もっと良いケアをしたい」とか「地域の人の力になりたい」という気持ちを抱えて、自分なりにスキルをあげたい夢をもっていることもわかってきた。また、スタッフ同士は、互いに結婚式に出たり、誰かの身内のお葬式に駆けつけたり、出産のお祝いをしたり、誕生日をお祝いしたり、絆を大切にしていた。
エイズで毎日同胞たちが死んでいく病院だ。入院してきた人が親戚、友人という場合もあった。「どうして自分に打ち明けてくれなかったのかしら」と、ショックを受ける病室での出会いも多かった。
そんな死をあつかう現場で、気持ちの安定感を崩す「なにものか」がどこからかやってこないよう、互いに支えあっている。
よそ者の私が、それを引っ掻き回す権利は全くなかった。
渡航直後の帰国での報告会では、ケアの質についての質問への回答で、自分がスタッフの背景にまだまだ無理解であったことを今ではとても反省している。

話は戻るが、ローズのようなたくさんの気になる人を抱えている人がどうすればよかったか。それは、その時期に働いているソーシャルワーカー次第だという問題が2つめの課題だった。
現在この病院のソーシャルワーカーは有能で魅力的な女性が、精力的に働いているが、当時は入れ替わりが激しく、中には「働かない」ワーカーもいた。例えば、私が南アに渡った当初に病棟に入院している患者は、全員が「ディスアビリティグラント」という障害者手当てのようなものをもらえる権利があったが、その手続きが完了している人や制度を知っている人は、半数だった。しばらくは、慣れない南アで患者のグラント申請の手伝いに四苦八苦する羽目になった。
私が渡航当初に知人から聞いたのは、南アではアパルトヘイトの時期から、アフリカ人でもつくことのできた専門職が看護師と教師とソーシャルワーカーだったから、有能な人ばかりではなく、権威に憧れてその職業を選び、事務所の机でふんぞり返っている無能なワーカーも多いのだという話だったが、まさにそんな感じだった。
病院では現在はソーシャルワーカーは病棟の患者のケアだけでなく、地域へのアウトリーチ活動も行っている。また病棟の入退院の調整を担当しているスタッフも、地域からのSOSや病棟スタッフからの情報で、貧困地区へ患者の様子を見に駆けつける。
これらの活動は、やはりなんといっても、当時私たちの「希望」であり続けたファーザー・ニコラス(根本昭雄神父)の後姿を見ていたスタッフが、自らの姿勢を少しずつ変化させていった結果だと思っている。

このファーザー・ニコラスがローズらスタッフにとっての3つめの悩みだった。ファーザー・ニコラスの場合は、熱心に精力的に、そして言えばすぐに、動いてくれることを誰もが知っている。そして早朝から夜中まで、働いていることも。なので、スタッフはファーザーが倒れないか心配で、これ以上彼の仕事を増やしてはいけないと思って、ファーザーにはなかなか自分の抱えている心配事、気になる地域の誰かのことを切り出せずにいるのだった。スタッフによっては真剣な顔で私を呼びつけ、「リラト、昨日ファーザーは何時間寝たの?」「ご飯は食べさせているの?」と質問攻めにする人もいた。
次第に、ファーザーへ頼みたい用事や、気になる地域の誰かの話は私のところにまず来るようになっていった。
ファーザーが過労で倒れないか心配だったのは、私も同じだった。それで、多くの声かけられた用事を、ファーザーの出番が必要なものかどうかを、まるで救急病院の外来のようにトリアージしていく。
できるものはなるべく、自分のこれまで培ったスキルを用いて、当時はほぼ把握できるようになった周辺地区へ乗合バスや徒歩で訪問して歩き、必要な段階でファーザーに話を持っていくようにしていった。
この活動の大きな後押し、私への勇気や知恵をくれたのが、シスター・ローズだった。
可能な限り、休みの日を使って一緒に訪問をしてくれたり、ケア・ギヴァー(介護士)だった彼女は「自分もいずれは看護師の資格をとりたいの」と夢を語ってくれた。
ローズがいてくれたおかげで、タウンシップの個別家庭でのエイズ遺児や遺族を支えるニバルレキレの活動の第一歩が踏み出せたといっても過言ではない。

本当にローズにはどれだけ感謝していることか。
そのローズだが、仕事を続けながら、土曜日だけ通って看護士になるための勉強ができる学校を見つけたと喜んで報告してきたので、これはもちろんファーザーに二人で、報告をした。
ファーザーが、施設としてスタッフのスキルアップのためのお金を出せるように推薦をすること、無理ならば自分の方でなにかできないか考えましょうと、言ってくれ、結果としてはローズは施設の支援でもって看護の学校に行ける運びとなった。

ザネレの物語を終わらせたら、ローズのことをもう一度書きたいと思っている。

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