ノムサ(1)

 ノムサという女性が34歳で亡くなりました。ノムサが本名なのかどうかすら私たちに最後までわかりませんでした。身寄りを見つけることもできないまま、死亡時の煩雑な用事をホスピス職員が手分けで行い、ノムサは郊外の墓地に埋葬されました。
 果たして、彼女はノムサだったのでしょうか?

 南アでは身分証明はIDですが、IDを取得していない大人もたくさんいます。というのも、アパルトヘイトの時代に有色人種はIDなど持つことができなかったからです。アパルトヘイトが終わった後に、選挙権を得るためにたくさんのアフリカ人がIDを取得しました。だから当時IDを取得した人は、自分の本当の誕生日とぜんぜん違う日づけで生年月日が記入されていたりします。どうも、一斉にID発行の手続きをした日があるようです。そしてほとんどの人は、「違うんだよね〜」と言いながら、気にせずに、ID上の生年月日と本当の親からきいている誕生日とを場に応じて使い分けています。私のパートナーもその一人。「違うんだよね〜」とのんきに、事務的な書類にはIDの誕生日を書き、病棟のスタッフバースデー表には本当の誕生日を書き、たまに「あれ、いつだっけ・・」と言っています。

 ノムサはIDを本当に持っていなかったのか、隠していたのかはわかりません。南ア人かどうかも。荷物からは何も見つかりません。でも追求することなく、行き場のない路上生活者となっていたノムサを、どういった経緯かはわかりませんが、ファーザー・ニコラスが見つけてきて、セントフランシスケアセンターというエイズホスピスが引き取ることになりました。ノムサがHIVに感染していたことだけは確かでしたから、それで入院の条件をクリアしたことになるのです。
 ノムサは入院後も一切身の上のことを話してくれませんでした。それは見事なもので、入院ののち数年をARV治療を受けられないままサバイブ(生き延び)ましたが、計4年間を一切、自分の人生を秘密にしたままこの世を去りました。
 生命力は強かったのだと思います。CD4カウントという免疫の指標になる数値はこの病院では図れないので、紹介元の病院に確認を依頼します。といっても、「感染者のCD4カウントをチェックする」というHIV感染者にとって大切な行為が公立病院で当たり前に行うようになったのは、南アの人々が治療を求める運動をしていく流れの中で、行政も動いて医療サービスとして整理されていったものです。ですから、ノムサの入院した日は、2002年でしたからそんなサービスは近くの公立病院ではしてくれませんでした。でも、エイズホスピスの方も、行き場のない彼女はとにかく「住む場所」が大切なのであって、ずっと入院して過ごせばいいと考えたのです。
 入ってみると、ノムサはなかなか気性の激しく、難しい心の持ち主でした。いくらID取得やディスアビリティーグラント(障害者のための生活保障)の手続きをとるメリットを説明しても、拒絶しました。
「ここにいられさえすればいい。なにも他はいらない。何も私は聞かれたって教えないわよ!」と、多くの職員にけんか腰でした。病棟のちょっとした番長みたいな存在にあっという間になりました。
 所持金のない彼女がなぜか、ベッド脇の引き出しにこっそりとお酒のビンを隠して、朝は景気づけに、夜になると寝酒に飲んでいます。タバコも吸っているし、なんだか昼間はどこやらの茂みから、夜は男性の病室から、シラっとした顔で出てきます。テレビのある女性たちのくつろぎの病室では、一番大きなソファーをぶんどって、とんでもない格好で寝転がっていたり、何を思ってか自分の胸を急にあらわに出して(アフリカ女性はおっぱいを人に見せること自体はさほど気にしません)、乳首をなめて「あらショッパイのね」と言ってスタッフをドギマギさせます。
 ある意味でノムサは好き気ままに過ごすことが許された、VIP待遇だったのです。白人のスタッフにはとても嫌われていましたが、カトリック施設の病院ですから、ノムサに神父が手を差し伸べたように、皆がありのままの自称ノムサと暮らしていくことで、けっこううまくいくようになっていきました。アフリカ人スタッフは、どこかわがまま放題の彼女への優しい眼差しがありました。私はといえば、なんと出会ってから6ヶ月、彼女とは全く口をききませんでした。話そうとしても、プイとどこかに行ってしまうのです。
 患者たちは、昼間は可能な限りは病棟から庭にでて、椅子を丸く囲んで、座ってお茶を飲みながら語ったり、歌を歌ったり、元気なら踊ったり、編み物をしたり、他の人の髪を編んであげたり、楽しみを見つけて過ごします。芝生に寝転ぶのも気持ちのよいものです。その輪の中でも、ノムサはいたってマイペース。誰かに喧嘩をふっかけては、立ち去ってしまったり、ムッツリして座り続けていたり。
 私は、昼間病棟で働いている時間は、そのような団欒の場所で一緒に過ごすことも多く、ズールー語に英語の単語が入り混じったおしゃべりに必死に食いつきながら、身体症状の重い方の介助、患者さんの足浴や、マッサージ、爪きり、家族への手紙づくりをしたり、ただ誰かしらと手を握り合って輪に入っていることもありました。
 夜は、皆はTVのある病室でぴったりと肩を寄せあってテレビをみますが、チャンネル主導権は当然のようにノムサ。喧嘩にもならず、みんな「オッケー」という感じです。日本となんだか違いますよね。なんだか、温かいな〜と思いながら、ノムサはこのホスピスが好きなんだろうな、と安心して、私も無理に話そうとするのはすぐに止めてしまいました。
 夜の私の仕事は昼間とはちょっとだけ違います。個別のベッドを訪ねていって、ホスピスにいたるまでの一人一人の物語をゆっくりと、無理ないペースで伺いながら、病と向き合う気持ちや死への恐れ、家族への思いなど語り合います。ただ、個室はないので、そのような会話を同室の人は黙って静かにきいています。聞かれていることを了解しながら話してくれる人がほとんどです。(もちろん、人に応じて、1対1になる配慮はしますが)夜の病棟は、ちょっとした学生寮のような雰囲気です。誰もが、感染を知って負った心の苦しみを隠す必要のない、このホスピスでは、お互いとの深いつながりを入院生活で抱くようになります。一人との語り合いが、部屋全体へと広がりだすと、ちょっとした、自助サポートグループミーティングのような時間になります。「秘密保持」を気にしながら日本の救急病院などで働いていた私には、アフリカ人の分かち合いの文化、言葉を語る力、集団ができた瞬間にまとまりが生まれるという文化の素晴らしさといった、大きなエネルギーを、ホスピスという死と隣り合わせの場で教えてもらっていました。ノムサは、たいていテレビのあとはお酒を食らうと突っ伏して布団をかぶってしまいます。
 さて、私が一時帰国する時期があるときありました。一時帰国をしている間に、何人の患者さんが亡くなるだろうか。もう会えないかもしれないから、と悲しいけれど自覚している患者さんとの、さよならの挨拶をしに病棟を回ったときに、私は本当にお金も何もない生活でしたからどうしようか、と悩んで、ひとりひとりにあてたカードを作りました。幸いイラストは得意な方でしたから、似顔絵と名前、その人の好きな言葉に加えて、その人の日本語の名前をつくったのです。つまり漢字の当て字です。この作業は夢中になりました。どうせ当て字をするなら美しい意味を、私が知る限りのその人の人柄やイメージにあったものを・・とつくったものは、うれしいことに、なかなかの評判でした。なんでも喜んでくれるんです、本当にアフリカ人って
やさしいんです。
 カードのノムサは悩みました。好きな言葉は何かしら・・話してないからわからないけれど、皆と同じにせっかくだから作ろうと思いました。そんな訳で、ノムサのカードは正面向きでない、野原に立って目をとじて風を受け止める女性の姿にしました。言葉は「私はあるがまま、ここにいる」に。ノムサの当て字は「野夢紗」としました。何か彼女に逞しく生きてきた人生の中から、自分の美しさを感じて欲しいと思いました。ノムサは「ふん。」と小さな声を出して、受け取ってくれました。
 3ヵ月後、南アに戻ったときには本当にたくさんの患者さんが亡くなっていました。年間に300人以上が亡くなるホスピスです。ベッド数が48床ですから、1日に何人も亡くなるのです。ショックも大きいですが、元気に迎えてくれた患者さんもたくさんいました。そして、亡くなった患者さんの最後の日々を教えてくれました。
 静かに、3ヶ月の様子をお茶を飲みながら語り合っていたときです・・・大きな叫び声がします。ノムサの声です。ノムサが私の名前を呼びながら走ってきました。不器用な彼女の6ヶ月分+3ヶ月分の愛情のこもった大きなハグ(抱擁)が私を迎えてくれました。

 ノムサの話の続きをまた明日書きますね。